2005年7月のみことば

主の御名を呼ぶ

1節) その後わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し老人は夢を見、若者は幻を見る。
2節)  その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。
3節)  天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。
4節)  主の日、大いなる恐るべき日が来る前に太陽は闇に、月は血に変わる。
5節)  しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたようにシオンの山、エルサレムには逃れ場があり主が呼ばれる残りの者はそこにいる。
                      (ヨエル書3章1節〜5節)


 「主の御名を呼ぶ」という今日の説教題を御覧になったとき、新約聖書に同じようなことばがあったと、覚えている方もあると思います。5節はじめにある言葉はローマの信徒への手紙10章にある言葉です。それだけ今日のヨエル書3章が新約聖書との結びつきが深いということです。

 先週と今週は、いつも学んでいるマルコによる福音書から離れて、聖書の御言葉を聞いています。先週はマタイによる福音書、そして今日は旧約聖書のヨエル書です。実はこの二つの箇所は今年の教師検定試験の課題の聖書箇所です。これらの箇所を神様が教師検定と言う機会を通して与えてくださっている、と信じて秩父教会の皆さんと共に聴きたいと思います。先週のマタイ、そして今週のヨエル書の両者に共通するのは神の御業がどのように人々に与えられるか、それをどのようにして受けるかということです。

 今日読まれた箇所にはもうひとつ、新約聖書に取り上げられた箇所があります。それは1〜2節の言葉です。これは使徒言行録の2章でペンテコステ、聖霊降臨の出来事の後、ペトロの説教の中で引用されている言葉です。先ほども申しあげましたが、このヨエル書3章は使徒パウロ、そしてペトロにとってとても重要な言葉でした。それも救いが全ての人に及ぶ事が既に約束されていた事を示すという意味で大変大事な言葉です。

 この3章1節には「その後」、という言葉があります。これは1章から2章にかけて描写されるイナゴの災害と回復、沿い腕季語との後と言う意味です。ヨエルという預言者は旧約聖書のどの時代に生きたか、それを確定することはとても難しい事です。いろいろな説があります。紀元前九世紀から四世紀、と言う500年の幅があります。その中では一番有力なのはバビロン捕囚の後の時代時に生きた預言者であろうということです。しかし、それも決定的なことはいえません。ヨエル書の1〜2章にいわれる「いなご」の災害、それが大量発生する様は非常に破壊的なことが起きた事を伝えています。単に農業が被害を受けるだけではない。野山の草の一本も残さないほど食い尽くす「いなご」の襲来は社会そのものも破壊するのです。 1915年に、それまでに知られていたいなごの大量発生をはるかに上回る大発生があり、それによって壊滅的な被害があったそうです。このことから考えれば、そういった自然災害的なことは聖書のどの時代にもありえたことであるわけです。預言者という存在はイスラエルにとってとても重要なものでした。自然災害や、あるいは戦争の破壊の意味を教えるものであったからです。主の民であるイスラエルに起きた厳しい出来事をただ受け流すことなく、神の言葉をその状況の中で語るのです。

 災害で困難な中にあるものに神の厳しい裁きをかたる。現代的な感覚では考えられない事です。悔い改めを迫ると言うのも無慈悲に感じる。人間的な思いからいえば、そうなります。しかし、苦難の中にあるからこそ、神を思い出さなければならない。神を思い起こす事、すなわち、主の御名を呼ぶ事こそが必要なのです。

 預言者ヨエルは「いなご」の災害を「主の日」の到来であると受け止めました。この「主の日」と言う言葉のなかで、預言者は過去の事、現在の事、そして未来の事を主からのヴィジョンとして受け止めるのです。「主の日」あるいは「その日」と言う言い方は旧約の中でしばしば使われる言い回しです。主なる神がこの世界に対して介入をされる時が来る。裁かれる時が来る。それは定まっていて変えられることがない。それがいつか知る事こそできませんが、それは迫りつつあるのです。「主の日」に備えて、「主の御名を呼ぶ者」となれと預言者ヨエルは呼びかけているのです。その呼びかけに応えるのは、緊急の事です。「急げ!主の御名を呼べ!救われるために!」と預言者は言っているかのようです。

 実は、私たちはこの3章の中にある「主の日」の出来事は実現した事と、まだ実現していない事があることを知る事ができます。私たちは1節の「その後」の時代を生きています。つまり1節はペンテコステの出来事ですから、間違いなく私たちは「その後」の時代の子どもです。聖霊降臨によって教会が誕生したその後を私たちは歩んでいます。その一方で、4節にある「主の日」の前を生きているのです。よく、「すでに」と「いまだ」の狭間にといわれますが、まさしく私たちは中間の時代を生きています。 霊の注ぎと言うことでは、聖霊降臨節第7主日礼拝と今日の週報に書いてあるように、教会の暦の中にしっかりと刻まれています。であるからこそ、今わたしたちがそのようなものとして生きて、歩んでいるかどうか、と言う事を振り返らざるを得ません。旧約聖書の伝統の中では、霊の注ぎを受けるというのは特別なことです。預言者、王、あるいはイスラエル民族の危機の時に神の選ばれた人物に霊の注ぎが起こるのです。士師記のサムソンのように特別の力によって民族を救うような人物です。ところが、預言者ヨエルはそれが全ての人に対して起こるといっているのです。イスラエルの全ての人に拡大しているのです。1〜2節でいわれているのはそういうことです。使徒ペトロは、主イエスを信じる者、パウロに至っては異邦人の全てにそれが起こるといっているのです。「主の御名を呼ぶ者」には救われる、それにあずかるものは神の霊すなわち、神の息吹を注ぎ込まれたということになるのです。神の息を受けるものは神の力を持つものです。それが一部のものだけではなく、御名を呼ぶ者全てがそうなるのだというのです。

 今、わたし自ら、自分がそのようなものである、それを受け止め、確信して信仰生活を歩んでいるだろうかと思います。神の力が自分の内にあることを意識しているだろうか、そう自分に問うときに、むしろ自分の弱さばかり気にしている事に気づきます。「力」と言われると一種の心もとない気分を持ってしまう事はないでしょうか。「聖霊を受けている」と、力強いことを示すような事ができない、むしろ、弱点や欠点ばかり自分の信仰生活の中に見つけ出してしまうかもしれません。しかし、そうであるからこそ、かえって神の霊が主の名を呼ぶものである私たちに注がれている、そのことを信じ、そこに立ち続けるべきではないでしょうか。特別の目立ちやすい行為をすることが神の霊を受けている証拠にはなりません。むしろ、困難な中にあっても、聖書の言葉にすがりつくようなあり方ができるならば、それこそが、聖霊を受けているということである。コリントの信徒への手紙1の12章3節には「聖霊によらなければだれも『イエスは主である』とは言えないのです』とあるとおり、信仰の告白そのものが聖霊のうながしなしにはできません。そのような単純素朴な信仰告白は神の力そのもの、神に敵対する力を払う力なのです。

 週報にもふれたのですが、今日は戦時中に、旧ホーリネス教会に対する弾圧が起きた日です。ちょうど63年前のまさに今日、6月26日に治安維持法違反という疑いで旧ホーリネス教会に属していた教会の牧師、信徒への一斉捜査、逮捕が起こりました。牧師たちはその職を奪われ、教会は解散させられました。文字に書かれたその記録を読む時、書かれた以上の筆舌につくしがたい苦しみがあったと思わされます。わたしたちの信仰の先輩たちが経験した事は今では考えられない事です。そのような苦しみをくぐり、信仰に立たせ続けたのはいったいなんだったのでしょうか。それはおそらく、当時の旧ホーリネス教会が特に強調していた再臨への希望であると思います。今月は礼拝で「四重の福音」強調月間と言う事でその中に言われている「新生、聖化、神癒、再臨」ということについて礼拝の中でふれてきました。弾圧を生きたわたしたちの信仰の先輩たちは主イエスがこの地上に再び来て、神の国の支配を確立される日が近いと言う聖書にある約束を信じたのです。

 預言者ヨエルは3章4節で「その日」と言います。その日、主の日が来る。その前に様々なしるしが示されるのです。私たちにとって受け入れがたいがあると言います。人間の力ではどうにもならない事、それは自然災害、戦争、あるいは先ほども申しあげた信仰への迫害、弾圧ということといってもよいでしょう。世界中にそういった苦難が起きているというニュースを私たちは耳にしています。わたしたちはこの時代にどう生きるべきでしょうか。信仰をくじくようなことがたくさんある現実が一方にあります。しかし、決してそれにとらわれてはなりません。主の救い、それが全ての人に開かれていると言う事は、けっしてどんな困難によっても覆される事はありません。そして、いつか主イエスと再び会うことができると言う約束は取り消されると言う事はないのです。

 主の御名を呼べ、それを聖書は私たちに命じています。それはどうでもいいような勧めではありません。永遠の命に関わることです。聖書の中で四つの言葉で「主の御名を呼ぶ者」となる事が言い表されています。「ハレルヤ」、「インマヌエル」、「マラナタ」、「アーメン」という言葉です。それは「主を賛美せよ」、「神我らと共にいます」、「主よ来て下さい」、「本当に」という意味です。「主の御名を呼ぶ者」その人生の歩みは困難な事態に出会ったとしてもそれを受けとめる力を持っている歩みです。困難がそのことだけで終わることなく、神が全てを支配される世界が主イエスの再臨において実現する事を信じる歩みです。わたしたちの歩みを通して神の恵みの力が現されます。主の御名を呼び続ける信仰の歩み、それこそが神の栄光を表す事を信じ、共にこの週をはじめましょう。

 祈ります。
 まことの父なる神様、あなたの御名を呼ぶ者とさせてください。そのところであなたの力、栄光が現されることを信じます。再臨の主イエスとお目にかかるその日を望みつつす主イエスキリストの名によって祈ります。

             
(2005年6月26日 秩父教会礼拝説教より)

 
秩父教会  都築英夫牧師
(つづき ひでお)




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