2005年5月のみことば

仕える者になりなさい

聖書箇所 マタイによる福音書20章20節〜28節
 
 今日与えられました聖書はマタイによる福音書20章20節―28節です。エルサレムに上る途中で弟子達に対して、やがて、御自分の身に起こる呪縛、十字架、そして復活の出来事をお話になりました。その時ゼベダイの息子達の母が主イエス・キリストに願い事をしました。今朝はそのゼベダイの母の願い事を中心に御言葉に聴きたいと思います。

 まず着目したいのは20―21節です。ゼベダイの息子達の母が登場します。12弟子の内のヤコブ及びヨハネの母であります。この母は、やがて主の十字架の時に十字架のそばに立ちつくした女性達の一人でもあります。ここには、我が子可愛さのあまりに、母親の出すぎた名誉欲が出ているように思えます。イエスの前に来て「ひれ伏し」たまでは、良かったのかも知れません。しかし、その行動には「何かを願おうとした」とあります様に、後ろめたさ、ためらいを想わせるものがあります。このような事は、私達にもよくある事です。イエスは問い掛けられます。「何が望みか」。こうした問いは私達にも問い掛けられているのと同じです。

 今多くの若い人達が、自分の志望、希望・願望についてはっきりと持てないという風潮があります。何の仕事をしたら良いのか判らないと悩む人達が多いようです。自分の主体性が持てずに悩む人が多いようです。これと同様に私達信仰者は神様に何を求めるのか、神様の前ではっきりとしなければいけません。その様な場合、本当に求めなくてはならないものは何にかと反省する必要があります。ヨハネによる福音書16章24節201頁「今までは、貴方がたは私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、貴方がたは喜びで満たされる。」又、14章13節には「私の名によって願う事は、何でもかなえてあげよう。こうして父は子によって栄光をお受けになる。」このように、主の御名によって求める求めのみが、正しい求めです。それはかなえられ、父なる神の栄光があらわれるのです。

 「この二人の息子が一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃって下さい。」この願いと同じ様に、私達の願いは自分中心になりやすいものです。信仰の中にさえ、この様なエゴイズムがあり、自分の功績・栄誉を第一に考えて、人を出し抜く思いがつきまといます。この様な気持ちのあるうちは、信仰といっても自分中心の想いであります。祈りといっても自己主張に過ぎません。あくまでも自分の想いではなく、神の想いによらなければならないと思います。イエスは、「私の右と左にだれが座るかは、私の決める事ではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ」と言われます。神様の御手の中にあると言われているのです。

 しかし、私はこの地上で仮に主イエス・キリストの右左に座らせて頂けるとしたならば、主イエス・キリストが、あのゴルゴダの丘で十字架に付けられた時、左右に一緒に十字架に付けられた強盗の様になることではないかと思うのです。十字架を主と共に負う事です。苦しみを共にする事です。22節「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」と主イエス・キリストは言われます。私達は願い求めても、それに伴います困難や戦いの厳しさがあるのです。平和を求め平和運動をしたとしても、罵られたり、妨害にあったりと苦難があるのです。実際にビラを配っただけで逮捕され裁判になっている事例もあります。フイリピンでは一部の資本家、国の為に多くの民が貧困に苦しんでいます。彼等は「プアー」(貧困の意味ですが)等と記したプラカードを持ち、マニラ・セブ等の町でしばしばデモ行進をして政治改革を訴えています。厳しい戦いがあるのです。

 主イエス・キリストはこの世の中で、いつも悩める者、苦しむ者のそばに居られました。イエスの右左に座ると言うことは、その様な悩み、苦しむ人々と共に居ると言う事です。しかし、ゼベダイの子供達と母親は、栄光の時だけキリストの右左に座る事を願いました。私は、これは大きな心得違いであると思います。主イエス・キリストにありましては栄光と苦難は一つです。復活された主イエス・キリストの体には十字架の苦しみの傷跡がありました。ゼベダイの子、母達は栄冠だけを求めました。十字架の道を歩まれ、苦しみを負われた主イエス・キリストの右左には座ろうとはしませんでした。それはまるで努力しないで、勉強もせず学校に入学を希望する事、山登りの辛さをせずに頂上の眺めを望む事に似ています。使徒言行録14章22節でパウロとバルナバ達は「私達が神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言っています。

 この言葉は22節の「貴方がたは、自分が何を願っているか、分かってない。この私が飲もうとしている杯を飲む事が出来るか。」との言葉から通じていると思います。キリストの右左に座ろうとしている、その為にキリストの苦難を共に分かち合う事が出来ますかと問われているのです。私達が祈り求めることは、すぐにこの様に「私の杯を飲む事が出来ますか」との神様の求めが返って来るのです。苦しみを共に分かち合う事が出来ますかと問われているのです。

 ここで、祈ることについて触れてみたいと思います。私達は毎日祈りを捧げ神様により頼み、願いを語ります。私はその時には次のような姿勢が大事だと思います。一つは子供の様に、素直になり、低くなり、「どうか私の願いを聴いて下さい。助けて下さい。」と謙虚に祈る事です。そして「どうか、あなたの御心がなりますように、御旨ならば私は喜んでお引き受けします。」と祈る事です。

 そして神様は私達の祈りをいつも待って下さっているのです。それは、私達は、ただともしますと、私達自身の為の祈りになりがちですが、そのためばかりではなく、この世の苦しみの為に祈る者となる事を、神様の想いを、愛を一人でも多くの方達と分かち合う事を神様は待って居られるのです。私達が神様に対して祈る事は神様との対話と応答であります。神様の言葉を私達が聴こうとしなければ、神様も私達の祈る言葉も聞いては下さらないと思います。神様はただ一方的にだけ私達の祈る言葉を聞いて下さるのではありません。神様と私達との間に対話と応答が成り立たなければなりません。

 まずは、少しの間多くの事を祈り求める事のみに熱心にならず、まず神様が何を語ろうとされているのか、聞く事が大切です。御言葉に聞くのです。私達自身の中に神様を静かに受入れるのです。神様と真正面から向き合う事です。そうすれば自然と、子供の様に素直に、謙虚になる。子供のような真実な祈りをする事が出来るのです。ですから、神の言葉にまず聞き従う事が第一に必要なことです。地上の楽しみや悲しみにのみ目を奪われていたり、あちらの神様、こちらの仏様と心が定まらず、目先の利益のみを求めている。こんな祈りの姿勢、この様な信仰、私は本当に祈る姿であると言えないと思います。確かに神は全ての者の求めを、愚かな者の求めでも聞いて下さります。しかし、信仰者の祈りとは、ただ唯一の神、私達の救い主、イエス・キリストの父なる神に聴き従う者にのみ出来ることなのです。

 私達は神にのみより頼みます。求める私達は、神の御声を聞かなくてはなりません。こうして主イエス・キリストは、求めて止まないゼベダイの息子達の母に、祈る私達に求めるのです。「私が飲もうとしている杯を飲む事が出来るか。」と。譬えそれが苦しくても辛くても、主イエス・キリストが飲んで居られる杯を飲めますか、主イエス・キリストの十字架の苦しみを我が為、我がものして耐え忍び、神と人に仕える事が出来ますかと問われているのです。「貴方がたは自分が何を願っているか、分かっていない。」と主イエス・キリストは言われます。あなたは求めなさい、大いに求めなさい、しかし、自分が何を求めているのか、求めている事の本当の意味を分かっていますか。何に信頼し、「何を、どのように、何処で、なぜ、誰と、いつ、どのように」するのか、分かっていますか。といわれているのです。

 「家庭内の平和」を求めています。という事をよく伺います。夫婦が仲良くしていますか、嫁と姑が上手く付き合っているか、親子はどうですか。それぞれ重荷を担い合い、相手を認め赦し合うことです。

 「子供が反抗的で困ります」と言う方がいます。親は子供としっかりと向き合い、子供の本当の重荷を負っていますかと申し上げたいと思います。

 私達はついこの世の事、自分の事、自分達の価値基準で判断してしまいます。そうではなく、神様がどのようにされるか、神様の御言葉に従っているかという想いを持つべきです。家庭の中で、職場の中で、どんな場合にも、神の教え愛の実践がなされているか否かが問われているのです。コリントの信徒への手紙一の13章4節―7節に、この様に記されています。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。全てを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」とあります。又イエスは「互いに愛し合いなさい」と教えています。あなたが祈り、求める時、いつもこの様な問いかけが神様から返って来る事を忘れてはなりません。その神様からの問いかけを聞く時、あなたの祈りが、私達の祈りが神に聞かれ、神と一つになれるのです。

 「私が飲もうとしている杯を飲む事が出来るか」と主イエス・キリストが言われた時、ゼベダイの息子達は「出来ます」と勇ましく答えました。私達には出来ることと出来ない事があります。自分の利益になる事は私達は勇ましく「出来る」と言いがちです。そういう人に限り困難な事が起こると「出来ない」と言い逃げ出すのです。キリストの弟子達がそうでした。従いますと言いながら、私は主イエスを知らないと決して言わないと言いながら、裏切りました。

 まず神の御旨に聞くことです。主イエス・キリストは神の愛の御旨以外の事は為さりませんでした。私達にも出来る事はあるのです。キリストが弟子の足を洗われたように、私達は水一杯でも汲ませて下さいと人に仕える事が出来るのです。仕えること、低くなり、僕となる事です。それが「主の杯を飲む」事になるのです。全ては神に委ねて歩むのです。イエス御自身の姿がそうでした。「多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た」と言われるように、僕の身分となられました。讃美歌513番の詩ですが「主は命を惜しまず捨て、その身を裂き、血を流した。この犠牲こそが、人を生かす。その主に私はどう応えよう」と歌われています。私達も低く、僕となり、仕えることです。その時私達の願いはかなえられるのです。さあ出かけましょう、復活節のこの時、主の恵に応えて歩みたいと思います。「仕える者になりなさい」。

 祈りましょう。キリストの父なる御神、御名を褒め称えます。御子イエス・キリストの十字架の苦しみを覚えます。計り知れない深い愛を思います。主よどうか、このあなたの愛に、応えるものとして下さい。仕える者として下さい。主イエス・キリストの名により祈ります。アーメン
 
川口教会  本間一秀牧師
(ほんま かずひで)




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