2005年3月のみことば |
「民はこぞって答えた。『その血の責任は、我々と子孫にある。』そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。」 (マタイによる福音書27章25.26節) |
"イースターに向けてパッションを観よう!” こんな見出しのダイレクトメールが、教会に届きました。昨年、公開されたメル・ギブソン監督「パッション」のDVDとVHSが発売になったという案内です。イエス・キリストの最後の12時間を描いたこの映画は、話題になりましたので、クリスチャンでない方でもご覧になった方が多いと思います。 この映画で、私の一番印象に残ったのは、主イエスが兵士たちに鞭打たれる場面でした。肉を裂く鞭の鈍い音、うめき声、あざけりと憎しみを含む笑い声、長い時間に感じるその場面は、今も私の中に、後味の悪いものを残しています。 これまで、キリストを描いた映画をいくつか観ましたが、こんな印象の映画はありませんでした。信者の方がわざわざ電話してきてこう言いました。「あのローマ兵たちは、強暴な今のアメリカをあらわしているんだ」 “イースターに向けてパッションを観よう!”この軽い言葉に違和感を覚えています。 ![]() ![]() 主イエスの苦難と十字架は、民が本来、身に負わなければならないものでした。その鞭打ちは、彼らが受けねばならない刑でありましたし、十字架は彼らの裁きの姿をあらわしています。これを、主イエスが代わってお受けになられたのです。しかし、あの時民は、主イエスの苦難と十字架の意味を理解せず、主イエスの血の責任を自分たち、そして子孫たちが負うてもよいと豪語しました。「主イエスは神を冒涜し、自分たちをそそのかす者、それゆえに裁かれてしかるべき者である、この判断の責任は我々がとる」と、言ったのです。 「パッション」の後味の悪さとは何なのでしょうか。私たちクリスチャンは、主イエスが鞭打たれること、それは、私に代わって打たれておられるのだと理解しています。灰を我が身につけて、悔い改めを祈ります。しかし、どこかに、「私の主イエスにむごいことをしている」との思い、「そこまで描き出す必要はない」との思い、すなわち「そんな仕打ちを受ける理由がない」と弁明し、正当化している自分があるのかもしれません。映画「パッション」の後味の悪さは、自分でも気づいていなかった罪の姿をあらためて観たことに対する反応であるのかもしれません。 ![]() そこに見出されるものが、キリスト教で最も大切な部分です。これを自分のテーマとして受け入れることができるならば、キリスト教が福音として伝えていることを、まるで目からうろこが取れるようにわかるでしょう。 |
東所沢教会 深見祥弘牧師 (ふかみ よしひろ) |
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