2005年3月のみことば

パッションを観ましたか

 「民はこぞって答えた。『その血の責任は、我々と子孫にある。』そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。」
           (マタイによる福音書27章25.26節
 
 "イースターに向けてパッションを観よう!”
こんな見出しのダイレクトメールが、教会に届きました。昨年、公開されたメル・ギブソン監督「パッション」のDVDとVHSが発売になったという案内です。イエス・キリストの最後の12時間を描いたこの映画は、話題になりましたので、クリスチャンでない方でもご覧になった方が多いと思います。

 この映画で、私の一番印象に残ったのは、主イエスが兵士たちに鞭打たれる場面でした。肉を裂く鞭の鈍い音、うめき声、あざけりと憎しみを含む笑い声、長い時間に感じるその場面は、今も私の中に、後味の悪いものを残しています。
 これまで、キリストを描いた映画をいくつか観ましたが、こんな印象の映画はありませんでした。信者の方がわざわざ電話してきてこう言いました。「あのローマ兵たちは、強暴な今のアメリカをあらわしているんだ」
 “イースターに向けてパッションを観よう!”この軽い言葉に違和感を覚えています。

 教会は今、主イエスの苦難を偲ぶ時(レント・受難節)を過ごしています。それは、キリスト教の大切な祭りであるイースター(復活祭)前の6回の日曜日を除く40日間です。今年は2月9日(水)から3月26日(土)までの、日曜を除く40日間です。この40日には意味があります。古くイスラエルがエジプトで奴隷であった時、モーセを指導者としてエジプトを脱出し、荒れ野を40年にわたり旅をして約束の地カナンに到着した出来事、主イエスが活動を始める前に、荒れ野で40日40夜、悪魔の誘惑を受け、これに打ち勝たれた出来事、この「40」に由来するものです。教会では、40日間、この二つの出来事を思い起こし、合わせて主イエスの十字架に至る苦難を偲びつつ、主の前にざんげと悔い改めの祈りをささげます。

 先日、聖公会の教会で会合があった時のことです。礼拝堂の入口に菓子箱が置いてあり、葉っぱで作った手裏剣のようなものが、たくさん入れてありました。尋ねると、それはシュロの葉で作った十字架で、信徒の方が一人一つずつ作ったとのことでした。これを焼いて灰にし、主イエスの苦難を偲ぶ期間の最初の日(灰の水曜日)に、それを額に付けて、祈りの集会を守るということでした。荒布をまとい、灰をかぶることは、古い時代から深い嘆きや悔い改めをあらわす行為として、教会で行われてきたことでした。

主イエスの苦難と十字架は、民が本来、身に負わなければならないものでした。その鞭打ちは、彼らが受けねばならない刑でありましたし、十字架は彼らの裁きの姿をあらわしています。これを、主イエスが代わってお受けになられたのです。しかし、あの時民は、主イエスの苦難と十字架の意味を理解せず、主イエスの血の責任を自分たち、そして子孫たちが負うてもよいと豪語しました。「主イエスは神を冒涜し、自分たちをそそのかす者、それゆえに裁かれてしかるべき者である、この判断の責任は我々がとる」と、言ったのです。

 「パッション」の後味の悪さとは何なのでしょうか。私たちクリスチャンは、主イエスが鞭打たれること、それは、私に代わって打たれておられるのだと理解しています。灰を我が身につけて、悔い改めを祈ります。しかし、どこかに、「私の主イエスにむごいことをしている」との思い、「そこまで描き出す必要はない」との思い、すなわち「そんな仕打ちを受ける理由がない」と弁明し、正当化している自分があるのかもしれません。映画「パッション」の後味の悪さは、自分でも気づいていなかった罪の姿をあらためて観たことに対する反応であるのかもしれません。

 「パッション」は、ゲッセマネの祈りの場面から始まりました。お手元に聖書をお持ちの方は、新約聖書、マタイによる福音書26章38節から読んでみて下さい。逮捕、裁判、十字架、復活と映画に描かれていた出来事が書かれています。DVDを買って、観るとより理解できるかもしれません。
そこに見出されるものが、キリスト教で最も大切な部分です。これを自分のテーマとして受け入れることができるならば、キリスト教が福音として伝えていることを、まるで目からうろこが取れるようにわかるでしょう。
 
東所沢教会  深見祥弘牧師
(ふかみ よしひろ)




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