2004年8月のみことば

少数者を選び愛する神

  あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。
                   (申命記10章17節〜19節)

 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
                    (ルカ福音書15章1節〜7節)

 
イスラエルの神は少数者を選ぶ神である。旧約聖書に記された「出エジプト」の出来事はその事を如実に物語っている。神はこの世にあって無きに等しいようなイスラエルの民を敢えて選び、その神となられた。

 神がイスラエルに与えた十戒を始めとする律法中、極めてユニークな戒めが、「孤児や寡婦、寄留者に対する保護を求めた」申命記の戒めである。
 なぜこれらの人々の保護が求められるのか?それは、かつてイスラエルの人々もエジプトの地で寄留者であったからである。出エジプトによって「自由と解放」を与えられたイスラエルの民が、少数者である寄留の人々を抑圧することは自らの自由と解放への否定につながる。このように旧約聖書はイスラエルの民に少数者の権利の保護を強く促しているのである。
 
 さて、主イエスは福音書に記された「たとえ話」の中で、九十九匹の羊よりも、道に迷った、たった一匹の羊を探す羊の主人の姿に「失われた一人の人間」を探し求める「神の愛」をたとえている。(ルカ福音書)
 このたとえで明らかなように、神の愛は常識を超えている。神の愛は逆説的であり、その愛は「この世の小さきもの」「少数者」に向けられているのである。

 近年、「当事者主権」という主張が展開されている。(詳しくは『当事者主権』岩波新書)
 多数決民主主義では少数者は決して多数派にならず、排除され、抑圧されてしまう。
 当事者主権とは、旧来の多数決民主主義の発想を根本から組み替えて、しょうがい者・女性・高齢者・こども・不登校者・患者等の当事者たちが、自分たちの生き方を決める「自己決定権」を自分たちに取り戻そうとする「ラディカルな民主主義」のことである。とにかく、「最大多数の最大幸福」が「公共性」を基準として、少数者の犠牲によって成り立ってはならないのである。

 聖書を読む私たちは、旧約聖書の戒めの中に、そして新約聖書のイエスの教えの中に、少数者に一貫して注がれる「神の愛」を見いだすことができる。
 今を生きる私たちが、少数者に注がれるこの「神の愛」を受け入れ、聖書の戒めと主イエスの教えに従って「自由と解放への道」を、そして「神の国への道」を、「私たちの少数者」と共に希望をもって歩みつづけていきたい。
本庄教会  飯野敏明牧師
(いいの としあき)




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