2004年3月のみことば

山々に向かって

詩篇121編
1 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。
2 わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。
3 どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。
4 見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。
5 主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
6 昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。
7 主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。
8 あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。


 旅立つ人は希望や豊かさを予感させる「山々」ではなく、死や恐怖を予感させる「山々」に向かっています。そして、苦難が予想される道行きに一体助けがあるのだろうか、それはどこから来るのだろうか、と自問しています。1節のこの揺らぎは、2節を息つぐ間もなく読んでしまうと、予め神が助けるという答えが用意されているかのようです。そうでしょうか。わたしは、1節と2節の行間には旅立つ人のはじめの一歩を踏み出していいのだろうか、できるのだろうか、大丈夫だろうか、という旅立ちを蹄躇することや戸惑いにも似た気持ちがあったのではないか、と思います。

 詩篇121編は1−2節の旅立つ人と3−8節の見送る人との対話の形式で成りたっています。旅立つ人がはじめの一歩を踏み出すのは、自分の力に依り頼むのではなくて、3−8節に示されている、厳しい旅の日々から生命が守られるということであり、助けが備えられているという促しの言葉によるのではないでしょうか。形式的には1−2節、3−8節の構成になっていますが、内容的には1節と2節の間に3−8節が挟み込まれている、という少し強引な読みが、わたしには、解りやすいのですが、いかがでしょうか。1節の旅立つ人の戸惑い、不安から、2節の「わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから」という信頼への展開は、見送る人との対話(3−8節)に起因すると考えます。この対話が、背中をポンと叩いて「達者で」「大丈夫だ」という促しになって、信仰による旅立ちの決意が起こされたのです。

 「山々」の示す印象がたとえ、死や絶望的に見える世界であったとしても、その天地の根源を神が創造されたという信仰に新たに立つことによって開けてくる、現実を拓く物語があるのではないでしょうか。促しによって、そこに向かって歩み始める信仰、希望、勇気、が起こされるのです。
 わたしは3−8節の神の守りをイエス・キリストと「わたし」との対話として理解します。イエスその方が、1節のように戸惑い躊躇するわたしたちに助けと守りを約束してくださっている。わたしたちの現実には「山々」と呼ばれる状況が厳しく臨んでいます。その「山々」に、主イエスの歩みを覚えつつ、はじめの一歩を踏み出すものとなりたい、そう願います。

 様々な「山々」を思います。日光の雄大な「山々」とそこにある歴史、足尾の決して生き返ることのない「山々」とそこにある歴史、これら現にある「山々」だけではなくて、わたしたちの前に厳しく立ちはだかる状況、歴史。この「山々」をわたしたちは詩人と共に見上げています。そして問うのです。「わたしの助けはどこから来るか」と。

 「わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから」とイエス・キリストにあって告白し、同時に、これらの「山々」に向かって、背後にある悪魔の働きに抗う巡礼者として歩むよう召されているのです。
 日本は戦争を行う国へと完成されつつあります。今日の「山々」に、わたしたちは直面しているのです。イエス・キリストの促しのもと、「平和を実現する人々」として歩んでいきましょう。

加須教会  原 宝牧師
(はら たから)

※ 原宝牧師は、2004年4月上大岡教会(横浜市)に転任しました。




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