2004年2月のみことば

来て、見なさい

 その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。フィリポはアンデレとペトロの町、べトサイダの出身であった。フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨゼフの子イエスだ。」すると、ナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは「来て、見なさい」と言った。
               (ヨハネによる福音書1章43節〜46節)


 「なぜこの道を行かなければならないのか?他に選択の余地はないのか?」と思わされることが、わたしたちの人生では何度かあります。入学試験や、就職で希望通りのところに行けなかったり、失恋したり、災難にあったり、病気になったりしたときです。明日のことはわからない...けれども気が重い。「明日から何のいいことがあるというのか」と希望も感じられない。そんなときがあります。でも、本当に明日のことはわたしたちにはわかりません。「どうせこうだろう」とか「もしかしてこうなってしまうかも」とか、考えても真実はわかりません。

 ナタナエルは、イエスに出会うまで何も期待していませんでした。フィリポが「モーセや預言者たちが示してきた、救い主に出会った」と言っても、ナザレのような田舎の有名でもない者が、そんな救い主である筈がない、と決めてかかっています。それは、わたしたちが「これからいいことなどある筈がない」と決めてしまっているのと同じです。でも、フィリポは「来て、見なさい」と彼に言いました。そして、イエスに出会ったナタナエルは「あなたは神の子です。イスラエルの王です。」と言います。「ナザレから何か良いものが出ようか」と言っていたのに、会ってみると「確かにこの方は神の子だ」と言うようになるのです。

 「どうせろくなことはない」そう思っているわたしたちにも、「来て、見なさい」という言葉がかけられます。一歩を踏み出して見なさいということです。でも、「そういわれずとも仕方なく一歩を踏み出しやってきたけど、やっぱりろくなことはない」と思う人もいるかもしれません。この一歩はもちろん明日への一歩でもあるのですが、神への一歩、主イエスへの一歩でもあるのです。
 「来て、見なさい」という言葉は「百聞は一見にしかず」に似ていると思った方もいるでしょう。似ているけど少し違うところもあります。目で見ることが重要ではないのです。ヨハネによる福音書の20章29節には「見ないのに信じる人は、幸いである。」とあります。「来て、見なさい」と言う言葉と矛盾しているようにも見えます。でも、根本的には同じことをあらわしています。神を信頼しなさい、ということです。見もせずに自分の考えで決めつけたり、目で見えるものにだけこだわるのではなく、神に信頼して歩みだすとき、真実が見え、明日に希望が与えられるのです。

 「神様を信じていれば、病気がなおりますか?試験に受かりますか?」そんな質問をする人もいます。奇跡的に治ったという人もいるし、そうでない人もいます。試験も同じです。でも、神に信頼して歩み出した明日には、必ず希望と真の幸いがあります。聖書では人は皆、罪と死に捕らえられていると言われます。しかし、イエス・キリストの十字架がわたしたちをそれらから解放し、真の自由を与えてくださるのです。神を信じ、自分を委ねていけば、色々なものから解放されるのです。

 「来て、見なさい」とわたしたちにも呼びかけられています。明日に、教会に、キリストに、神に、そして希望と喜びに「来て、見なさい」と言われるのです。「何の良いものがあろうか」と決めつけず、一歩踏み出して見ませんか。
朝霞教会  鎌木順子牧師
(かまき じゅんこ)




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