2003年9月のみことば

恵みと平和

 キリストの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから-----、この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。-----神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
           (ローマの信徒への手紙1章1節〜7節

 

 見ず知らずの人に、自分がどういう人であるかを知らせる手っ取り早い方法は、名刺を渡すことです。名前、所属する会社名(学校名・教会名)、肩書き、住所・・・・一目瞭然です。(ちなみに、私は余った聖句カードの裏面にハンコを押して名刺代わりに使っています。これだと、表に聖画と聖句があるのでキリスト教関係の者だということがすぐに分かってもらえる利点があります。それになによりも“ただ”です。)

 ローマの信徒への手紙の冒頭でパウロは自己紹介をしています。名刺風にいうと、真ん中に“パウロ”と名を書き、上の方に、大きく“キリストの僕”そして小さく“神の福音を伝える使徒”とでも書いてあるところでしょう。パウロにとっては、これが自分を言い表すすべてです。それで十分なのです。この自己紹介をもって、パウロはまだ見ぬローマの信徒たちに、「恵みと平和」の挨拶を送ります。それはキリストのものとされた者からの福音(キリストの救い)のメッセージです。
 この『ローマの信徒への手紙』は個人宛に書かれたものではなく、教会で公に読まれることを期待したものでありましょう。また、この手紙は書斎にこもって練りに練って書かれたものではなく、パウロ自身の実際の伝道状況を反映するものです。パウロの伝道の視野は遠くイスパニア(スペイン)にまで及んでいます。かの地に行くための足掛かりとして、まずローマの教会にその拠点を求めているのです。しかし実際には、パウロはイスパニアに行くことはなく、ローマで殉教死したと伝えられています。パウロの伝道の生涯は「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るための、目標を目指してひたすら走り続ける」ものでした。この手紙には、自分が生かされてきた福音の恵みを、ローマの教会の人々に伝えようとの気持ちがにじみ出ています。

 パウロの残した書簡(手紙)はすべて、宣教の一環として記されたものです。主イエスキリストを宣教することがパウロの使命です。パウロは自分のことを「キリスト・イエスの僕」と言っています。僕とは奴隷であるということです。つまり、頭のてっぺんからつま先まで、キリストのものということです。しかし、それは上からの押しつけでそうなったのではありません。
 パウロはもともとは熱心なユダヤ教徒であり、聖書(今の旧約聖書)に精通していました。ファリサイ派のメンバーであっただけに、ユダヤ教の教えから、はみ出しているようなキリストの教えに従う者は断じて赦せませんでした。そして、キリスト者を追って迫害を続ける中、ダマスコ途上でキリストと出会い、それが彼の人生を180度変えるきっかけとなったのです。自分の信仰を絶対化し、いつも怒りに燃えていた者が、主キリストによってそれまで知らなかった心の平安を得ました。それは律法を守ることによってでは得られない、“神との和解”があったからです。恵みは主キリストの方からやってきたのです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネによる福音書15章16節)
 パウロの信仰の原点は、“神の恵み(恩寵−おんちょう)”にあります。パウロにとっての神は、すなわち主イエス・キリストです。“救い”は人間の努力や功績によって得られるものではありません。人一倍、自らを厳しく律することによって、“救い”を得ようとしていたパウロだけに、“救い”が恵みとして与えられるということを知ったことは全くの驚きであったでしょう。パウロは自らを「使徒」と称していますが、それは福音を伝える者としての強い自覚からくるものです。主キリストの奴隷となること、すなわち使徒であることに徹する時、パウロは真の自由を得ました。キリストへの服従と自由は一体化したものであり、表裏一体です。パウロは冒頭の挨拶の最後で、ローマの教会の人々たちに「恵みと平和」を祈ります。それはパウロ自身が受けた罪の赦し=恵みと、神との間にもたらされた平安(シャローム)との祝福の祈りです。この祝福があってこそ、わたしたちの日々の生活は守られ、豊かなものとされるのです。逆に祝福のともなわない生活は不毛です。何の喜びも生み出されません。

 人々が“神の名”を生活の中心に置くならば、神はその人々に祝福を賜ります。その祝福は、遠くイスラエルの民の“出エジプトの歴史”にまでさかのぼるものです。神は祭司アロンを通して、イスラエルの人々に祝福を与えられました。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らしあなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けてあなたに平安を賜るように。」(民数記6章24節〜26節)
 祝福としての「恵みと平和」は、神と主キリストからもたらされるものです。それが、キリストを信じる者の依って立つ基盤です。それは日々の糧として祈り求めてゆくべきものです。キリスト者=キリストを信じる者は、自分だけではなく、他者のためにも、「恵みと平和」を祈ります。み子キリストによって、聖霊の力による執り成しを祈るのです。キリスト者の肩書きは、パウロのようにただ、キリストの“僕”ということです。キリスト者の信仰は、単にキリスト教の教義や原理をうのみにすることでも、感情的な興奮にとらわれることでもありません。
 キリスト者には、自分勝手な思い込みや決意でなるものではありません。神からの“召し”が必要です。キリストの僕となる者は、「恵みと平和」を自ら受けると共に、その「恵みと平和」を世の人々に宣べ伝える重大な、そして栄光ある責任を負っています。


<お祈り>
 天の父なる神さま、主キリストにあって受ける祝福から始まる人生の素晴らしさを知りました。どうかその「恵みと平和」を心からの喜びをもって、日々の生活の中で“証し”してゆくことができますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

熊谷教会  中谷 清牧師
(なかたに きよし)




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