2003年6月のみことば

自由を与えるイエス

  あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする
          (ヨハネによる福音書8章32節

 

  迷信や占いの類は、私たちの周りにあふれています。手相、人相、家相は言うに及ばず、星占いやら血液型占いなどが面白くいわれますが、何の根拠もない迷信でしかありません。
 金銭問題で御利益がある神社で、お守りをもらった人がいました。このお守りで資金繰りもよくなると言われたそうです。しかしちっとも良くならないので、このお守りは何なんだろうと不信感をいだいて中身を開いてみたそうです。すると中から出てきたものはユズの葉っぱでした。「
融通」に引っかけて「ユズ」の葉が入れてあったと言うわけです。またある話では、家に不幸や災難がふりかからないために、南天の木を玄関先に植えるといいと言われたそうです。なぜ南天の木なのかと聞いたら、「難を転ずるから」と言われたというのです。何と馬鹿げたことなのでしょう!しかし不安を抱き、恐れを持つ人には、そんなものにでもすがりつきたいのでしょう。

 
運勢運星につながると言わんばかりの星占いなども、いろいろ講釈がなされますが、要するに何の根拠もないつくりごとに過ぎません。自分の生まれた月によってその日の運が左右されるなどと言うのは人間の巧妙なつくりごとです。朝のテレビのワイド番組に、「今日の星占い」などというコーナーがあるようですが、毎日気の利いた言葉をつないで占い文を作る人のご苦労はいかばかりかと拝察します(しかし案外、作っている方は気ままに思いつきで楽しんでいるかも知れません)。
 ひところより下火になりましたが、血液型占いなどもかなり根強い人気があります。これなどはもっともらしい科学的根拠があるかのように宣伝されていますが、病理学の点からみてもまったくの迷信です。それは疑似科学の一種です。科学に見せかけた迷信です。A型の人の性格はこうだと書かれてある項目の内、一つや二つは心当たりがあるものです。ところがB型のほうに書かれてある性格表も、だれにも一つや二つは自分に当てはまる事が書いてあります。このことひとつを見ても、血液型で人の性格が決まるとか、ましてや将来も決まるなどと言うことはまったくの作りごとだということがわかります。
 干支を年賀状に入れるのが当然と思われていますが、これなどは中国の古い迷信信仰でしかありません。そもそも神によって人間として生を与えられた私たちが、何を好んで自分を動物に当てはめる必要があるのでしょうか。これは人間の尊厳を傷つけること以外のなにものでもありません。
 私たちは、面白半分にこういう占いや迷信、慣習に首を突っ込むと、それに自分がつかまってしまいます。つまり不自由になってしまいます。遊び半分だったのに、いつの間にか今日の運勢を見ておかないと不安になり、言われている通りの行動をしないといけないと思うようになります。「今日は人と会うことに要注意」とあったら、人との約束をキャンセルすることになりかねません。その程度だけならまだしも、結婚する判断に、この人の星座と合わないとか血液型の相性が悪いなどと判断するなら、これは占いの奴隷になっているとしか言いようがありません。

 聖書は「
真理はあなたたちを自由にします」と語ります。私たちは自由だと思い込んでいても、その実態は不自由になっているからです。迷信や占いがその最たるものです。私たちはそんなものに縛られて、自分の人生を売り渡しているようなものです。「真理」は難しい公理ではなく、主イエスその方を指していますが、主イエスはそんな「縛り」から私たちを解き放って下さいます。文字通り解放です。私たちに不安が襲ってくるのは、自分の本当の主人を知らないからです。自分が自分の主人であると信じ込んでいればいるほど不安になります。それで当てどもなく、自分を導いてくれる主人を訪ねて迷信や占いに身を任せることとなります。しかしそこは人を奴隷にする市場なのです!

 主イエスと呼ばれるように、イエスは私たちの「主」です。この主人に、私たちは自分の人生を委ねることができます。主イエスはまたキリストとも呼ばれますが、キリストとは「
救い主」です。不自由に生きている私たちを自由にするのが、救い主なのです。聖書が繰り返し言う人間の「罪」、これこそ私たちを不自由にしている張本人です。迷信や占いに走るのは、罪に迷わされている結果とも言えます。
 この世のいろんな迷信や占いに右往左往させられず、また自分の欲に従わず、ひとりの主に従うところに、私たちの本当の自由があるのです。


和戸教会  三羽善次牧師
(みわ ぜんじ)




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