2003年4月のみことば

見えるようになりたい

 盲人は、「先生、見えるようになりたいのです」と言った。
             
(マルコによる福音書10章51節)
            
 

 私は日本キリスト教団西上尾教会に、教師として仕えさせていただいております石神稔と申します。サラリーマン生活を定年まで勤めまして、所定の試験を経て新米教師になったばかりです。

 私は、高校時代に初めて教会に行くようになりました。その教会には、身体の不自由な方が何人かおられました。その中から、二人の方をご紹介したいと思います。一人は、青年時代に盲目になられた、当時五十代の男の方でした。人生の途中で目が見えなくなるという辛い経験を語ってくれたことを思い出します。「野原を歩いていたら、白い靄がかかってきましてね、人が、まるで樹木のように、ゆらゆらとしか見えなくなった」と、失明に至る経過を語られました。食卓を引っ繰り返すほどの、荒れた状態が続いたそうです。
 その方は、私がお会いしたときは、なんと教会の役員として、奥さんの手を借りながら会計の仕事を見事にこなしておられました。人の話をしっかり、聞き届ける、全身が目・耳という感じでした。数字は全部、頭に入ってました。会堂中に響くような、大きな声で、ご自分の意志が全員に伝わるように、語っておられました。礼拝の司会も担当されました。
 その方の聖書は、マタイならマタイだけの福音書が、点字ですから、厚さ10センチ位ありました。朗読の時は、それを左手で腰の辺りに抱えて、右手の指先で一区切りづつ、しっかり読み進めておられました。

 もう一人の方は、左足の無い方でした。風呂敷に聖書と讃美歌を包んで、松葉杖をついて、教会の石段を登って来られていました。深い皺の奥に、きらきらしたきれいな目を持ったお年寄りでした。雨とか雪とか、寒い日には、教会で顔を拝見できませんでした。ある日、その方のお住まいに「どうなさっているかな」と思いつつ伺いました。小さな、粗末な小屋に一人で住んでおられました。詳しい経緯をお聞きすることは憚れましたが、ご本人が、「無い方の足の指先が、寒いと痛むんですよ。不思議なもんだねえ」と話されたことが印象に残っています。
 お二人について、今思うことは、しっかりと物事を見ておられて、しかも周囲に明るい雰囲気を与えてくれた方達だったという思いです。私にとって、人生の目を開かせてくれようとした先生たちだった、と感謝しているお二方なのです。

 バルテマイという盲人の物乞いが、イエスに叫んだ言葉が、「先生、見えるようになりたい」でした。今は「心の盲目の時代」ではないでしょうか。見えるようになったこの人は、道を進まれるイエスに従った、と記されます。この時代、光を与える人になりたいとしみじみ思います。ご一緒に「見えるようにされて」イエスに従って行きませんか。

西上尾教会  石神 稔牧師
(いしがみ みのる)




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