2003年3月のみことば

なくてはならぬもの

 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。
            (ルカによる福音書10章42節)
 
 私は日本キリスト教団埼玉和光教会牧師として、小羊幼稚園園長として働かせていただいております三浦 修と申します。
 自分の幼児期、それは日本の敗戦後の混乱期に山口県萩市にあったお寺の幼稚園に一年間だけ通うことができました。粗末な園舎だったことが記憶に残っていますが、でも、それはそれは楽しいひとときでした。
 ある日、“忘れ物”をして、厳しく母親に注意され、幼稚園に戻ったときに“本堂”で四人の先生方が手を合わせて祈っておられた後ろ姿がいつまでも印象に残っています。今にして思えば、無事一日の保育を終えた感謝の祈りを捧げておられたのに違いありません。
 このことから、20年後に神のみ手の中でいつしかキリスト教幼児保育に携わる者とされました。以後、「幼な子と共にキリストへ」の保育方針のもとに37年間“祈りで始まり、祈りで一日を終える”ことを幼稚園の先生方と大切に守って参りました。

 一昨年の秋のことでした。11月第2主日の午後に、小羊幼稚園の幼児祝福式を礼拝堂で開催する直前に、東京から来られたクリスチャンの祖父母から面会を求められました。
 「園長先生。今日の幼児祝福式を通して、どうか孫と嫁が神さまに連なるよう導いてください」と強く懇願されました。不思議なことに、その日の主日礼拝前に当教会会員で“光文社文庫”の編集の仕事に携わっておられる兄弟から、同社発行の三浦綾子著“なくてならぬもの”というタイトルの本を贈呈いただいておりました。
 昼食時にその本を開けたところ、祝福式のお話しとして用いたい、そう思う箇所が突然眼に飛び込んできました。『・・・ところが、日本にも素晴らしいお母さんがおりました。日本キリスト教団の発行している“信徒の友”の短歌欄に寄せられた歌にこういう歌がありました。“乳飲ますたびに子にかわり食前の祈りをする母に嫁はなりにし”と。おっぱいを飲ませるたびに、うちのお嫁さんは子どもに代わって食前のお祈りをする、そういう母親になったという歌です・・・』(P.58)
 この箇所を引用して、幼児の保護者の方々にお話しをさせていただいたときに、礼拝堂の後方に座っておられた先ほどの祖父母のお二人と視線が合いました。それはそれはうれしそうに大きくうなづいておられました。それ以来、神の不思議な導きの中で、そのお嫁さんは教会の集会に出席されるようになり、なんと昨春のイースター礼拝時に“洗礼”を受けられたのです。私はまさに、アドナイ・エレ(主の山に備えあり)の目撃者とされました。現在は教会学校の小学科スタッフとして良き奉仕の業に励んでおられます。

 主イエスは、ルカによる福音書10章42節で「しかし、なくてならぬものは多くはない。いや一つだけである。」と言われました。
 私たちにとって“なくてならぬものは何か”それは、私たちに息を吹き入れて人間としてくださった創造主なる神とそのみ言葉に聴従することです。みなさまどうぞ近くの教会に出席してください。祈りつつ。 
         
埼玉和光教会  三浦 修牧師
(みうら おさむ)




今月のみことば              H O M E