2003年2月のみことば

わたしについて来なさい

  イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
                            (マタイによる福音書4:18〜22 新共同訳)

 

  ガリラヤ湖で、イエスさまが四人の漁師を弟子にしたという出来事が起こりました。イエスさまは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」といって四人の漁師を招かれたのです。「わたしについて来なきい」とは「弟子となってわたしに従ってきなさい」という呼びかけです。
 この物語のポイントは、まず、イエスさまの方から呼びかけていることです。この呼びかけは命令であると同時に、彼らを新しい存在<人間をとる漁師>とする約束でもあります。「わたしについて来なさい」という呼びかけは聴き従う以外に選択を許さないような圧倒的なイエスさまの迫り方です。しかも、この招きは全く神さまの恵みでもありました。それは<魚をとる漁師>から、<人間をとる漁師>にするという、新しい存在にする約束でもあります。この<人間をとる漁師>には才能があるからとか、人間的資格があるからではありません。口語訳聖書では<人間をとる漁師にしてあげよう>と記されています。それは実に、イエスによってしていただかなければ、だれもなれないということです。二人はすぐに網を持って従い、もう二人もすぐに、舟と父親を残して従いました。
 このイエスさまの呼びかけに、わたしたちはさまざまな言い訳をしたくなります。「まだ、わたしにはすることが残っています」とか、「あのこと、このことをしなければなりません」というようにです。そしてまた、イエスさまの呼びかけに、「わたしは主の召命を受けるにふさわしくありません」としりごみするのです。しかし、自分が主の招きを受けるにふさわしいかどうかなど考えることは無意味なことです。なぜなら、わたしたちを招いてくだきる方は、このわたしがどんなに無力であるかをすでにご存知だからです。それでもなお、「わたしについて来なさい」と招かれているのです。

  18節に「イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられた時、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった」とあり、21節に「……、別の二人の兄弟ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのをご覧になると……」とあります。イエスさまが「ご覧になった」、「ご覧になると」という言葉に注目したいと思います。最初の弟子たちに対する主の招きにこの四人の漁師が応答したというこの記事の中心に立っておられるのは主イエス・キリストです。弟子たちの応答に先立って主イエスの招きがあり、イエスの招きに先立ってイエスのまなざしが彼等の上に注がれているのです。それは弟子たちが生き、そして働く生活の中にイエスさまが共にいてくださって、暖かいまなざしを注いでくださっていたのです。弟子たちは日常生活のその働きのただ中で、イエスに見出され、呼びかけられたのです。主に呼びかけられることは、わたしたちの具体的な日常生活のただ中で起こるのであり、主に呼びかけられ、主に出会う者はその場にあって、これまでと同じわたしではなくなるということです。聖書の中にはさまざまな奇跡物語がありますが、イエスさまがわたしをみもとに招いて、わたしに弟子となって「わたしについて来なさい」と呼びかけられ、弟子となるにふさわしくないわたしを変え、新しい人間にしてくださることこそ、奇跡ではないでしょうか。

 さて、この物語は、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に書かれています。そして、新共同訳聖書では、この物語の舞台がすべて「ガリラヤ湖」となっていますが、口語訳聖書を見ると、マタイとマルコはこの出来事が起こったのは「ガリラヤの海べ」と記しています。ルカだけが「ガリラヤ潮」となっています。わたしはマタイが「ガリラヤの海べ」としているところに深い意味があると思います。「海」というのは旧約聖書では怪獣の住家と考えられており、イスラエル人は一般に海に対して恐怖心を抱いていました。この聖書が書かれた当時の人々にとっては、当時の世界を「海」、しかも「嵐の海」ととらえられていました。教会はその中で、木の葉のように揺れ動く小舟でしかなかったでしょう。ここには、小舟の中に主が立っておられるという当時の人々の信仰が表されているように思います。世界中混乱と脅威、多くの矛盾と恐怖の中にいるわたしたちに、イエスさまのまなざしが注がれており、不安の中にいるわたしたちに主は呼びかけられています。

 あのクリスマスの夜、羊飼いたちは野宿していました。野宿していたのは貧しかったからです。生きる悩み、悲しみも多かったに違いありません。その彼等に、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」と天使は告げます。あなたがたのためにメシア(救い主)がお生まれになったと聞いても、「布にくるまって飼い葉桶に寝かしてある」乳飲み子が、困難な生活から安定した生活に変えてくださるとは思えません。けれども、彼等はそのことを聞いて「さあ、ベツレヘムへ行って主がお知らせくださったそのできごとを見てこようではないか」とその通りにしたのです。主のみ言葉は羊飼いにだけでなく、わたしたちの上にも働くものであり、わたしたちがそれを信じ、それに従って生きるようになること、これがわたしたちのなすべきことだとわたしは思っています。

 「わたしについて来なきい」と招かれたイエスさまが「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束されています。この聖書のみ言葉を信じて、一人でも多くの方が教会に足を運んでくださることを願っています。
狭山伝道所  森 淑子牧師
(もり としこ)




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