2002年11月のみことば

 

造られ、結びあわされて

 

 主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。

 しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。 

(創世記2章4節b〜9節)

(創世記2章15節〜25節)

 

先週で聖霊降臨節が終わり、今週から期節は降誕前です。創造から始まってずっとイエス誕生の告知に至るまで、旧約聖書で救済史を辿ります。

今日のテーマは創造です。創世記1章の創造物語の神は偉大な創造者、宇宙の構築者、近づくべからざる方です。しかし2章から3章になると、神は物語の登場人物の一人として現れ、もっと人間的な形で描かれることになります。主なる神はアダマ(土の塵)でアダム(人)を造られます。主なる神は、陶器職人として登場すると書いている注解書もあります。しかし決定的に違うところは、主なる神はアダムに命の息を吹き込まれることです。神に息を吹き込まれなければ、人間はただの土人形である…「人」はただ人だけでは存在できない者であるという根本的事実を聖書は教えているのです。

人が生きていくためには、住むところと仕事が必要です。それで主なる神はエデンに園を造り、アダムを園の管理人にして下さったのです。ついで神は、動物を造られました。人には仲間が必要であることをご存じであったからです。しかし動物は人の必要としている「助ける者、向き合う者」にはなりませんでした。

主なる神は、アダムに深い眠りを与えて、肋骨を抜き取って女を造られました。アダムが眠らされた…創造の現場は人の見ることのできないものである、神の創造の業は秘義であることを表しているのです。女が人のところへ連れて来られると、人は喜んで歌います。『ついにこれこそ わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼうまさに、男(イシュ)から取られたものだから。』女は動物が出来ないことを行い、人と深い交わりを結び、生涯を彼と共にすることが出来る別の人間であることが分かった…。

 

男性は世界がまだ混乱の中に造り出されたけれども、女性は、世界が落ち着いてきて何が必要かがよく分かるよい潮時を見計らって送り出されたのです。女は被造物として完成品なので最後に現れたのだと、ロバート・バーンズの詩にあります。日本語でいうなら真打ち登場です。           

                    北川辺伝道所  柳下仁牧師

                   (やなした めぐみ)

 

 

 

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