2002年10月のみことば

 

ソラ・フィデ

 

 「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」

 (ローマの信徒への手紙1章17節)

 

 

10月31日は宗教改革記念日です。この日は、私たち日本キリスト教団のようなブロテスタント教会にとっては、特別に大切な日です。このことは、世界史で習いますので覚えている方もいると思いますが、1517年のこの日、ローマ・カトリック教会(以下、ローマ教会と略)の学者で、アウグスティヌス派の修道僧であったマルチン・ルターは、当時ローマ教会が再度売り出した「贖宥券(しょくゆうけん)」{免償符(めんしょうふ)ともいう。一般的には免罪符と言われていますが誤解を招く訳です}に大変疑問を持ち、95か条の提題を慣例に従って自分の教会の扉に掲示しました。これは、あくまでも学問的討論のためでした。しかし、ローマ教会に大変な波紋を拡げました。「贖宥券」は、ローマ教会では十世紀頃から販売されていました。これは、救いの条件に善行を置くローマ教会の基本的考えが土台にあります。その考えによれば、イエス・キリストをはじめ、諸聖人の有り余るほどの功徳が天に蓄積され−ここから功徳を引き出せるのは教皇だけでした−ているので、罪の苦しみにうめく親類縁者の霊魂の償いを、その人々の功徳をローマ教皇から買い求めることによって罪を償うべき罰が許されるというものでした。ルター以前にもこのことに反対したり抗議した人々はいましたが、ルターのように聖書に深く根ざした抗議ではありませんでした。

 

ルターは、ヴィッテンベルグ大学で「詩編」や「ローマの信徒への手紙」の講義を真剣に行い、表題の聖書などで「神の義、即ち神の救いは、善き行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって与えられる」ということを発見し、信仰者としての主体性を確立しました。この「信仰のみ(ソラ・フィデ)によって、人は神に義とされる」という考えは、ローマ教会の功徳の考えに真っ向から反対するものでしたので、先の「贖宥券」ヘの抗議も当然であったのです。善行についてのルターの考えは、信仰によって救われた者の必然の結果であって、救いになくてはならない条件ではないのです。この「信仰のみ」もまた神による救いの条件にしてはならず、この信仰さえ神の恵みによるので、「信仰のみ」は「恵みのみ」と表裏一体のこととしてとらえねばならないのです。これらのことを通し、ルターは信仰者にとって大切なものは「聖書のみ」であることを示しました。

従って、私たちの教会は常に聖書によって革新される教会でなくてはならないのです。私たちの周辺には、さまざまな神学書、思想書、哲学書などがあります。それらを読むことは、全く構いませんが、信仰者が、聖書よりもそれらをより多く読むようになると、必ず信仰的には間違いを犯します。私たちの信仰を育て、はぐくむのは聖書です。どうぞ、聖書を読んでください。ルターを目覚めさせ、主体的人間として立たしめたのも聖書です。その後の宗教改革者たちを奮い立たせたのも聖書です。

聖書だけでは難しいので、なにか良い参考書でもとお考えの方、先ず神さまの手助けを求めて祈り、聖書を素読してください。難しいところも何回か読むうちに分かってきます。どうしても参考書が欲しい方も、参考書ではなくいろいろな訳の聖書を読むことです。日本語訳も何冊も出版されています。もし、外国語の出来る方は、さらに広く読めるのです。聖書は聖書で理解する。この基本を忘れないでください。それでも分からない時は牧師に訊ねるなり、参考書を紹介してもらって学んでください。

 

聖書は、祈りつつ読む者に、改革者たちに語りかけられた神が、あなたにも必ず神の声を聴かせてくれます。このみ声に応えるのは「あなた」です。そこで与えられたエネルギーを、教会に持ち寄り、互いに検証しつつ、それをもって教会を「神の教会」とすぺく励むのです。教会の一人一人が、このような信仰生活を送る時、その教会は主イエスの幹に連なる生き生きとした教会となるのです。

教会は、内的にはこのように聖書(神のみ言葉)によって日々新たにされてゆくところであることを教えたのも、宗教改革者たちでした。

 

                    埼大通り教会  遠藤富寿牧師

                   (えんどう とみじゅ)

※ 遠藤富寿牧師は、2004年3月隠退されました。

 

 

 今月のみことば      HOME