2002年4月のみことば

キリストの復活

「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。」                        
         (コリント人への第一の手紙 15章20節 :口語訳聖書)

 今年のイースター(イエス・キリストの復活を記念する日)は3月31日です。まさに、イースターと共に春の訪れです。雪に覆われる北国では、とりわけ春の到来が待ち遠しいのですが、復活節の喜びはこの春の到来の喜びと重なります。
 キリスト教会は、イエス・キリストの復活によって始まったと言えるでしょう。復活とはキリストが墓から甦ったということですが、そんなことを真面目に信じている人がいるのですかと、ある人は不思議に思うでしょう。しかし現に、世界中の何億という人が信じています。復活の信仰があるからこそ、教会は約二千年前に生まれて、今日まで存続してきたのです。復活の信仰がなくなったら、教会は存続する根拠を失い、やがて消滅して行くでしょう。それほどに、復活を信じる信仰は教会にとって大事なものと言うことができます。弟子たちの宣教の第一声は「キリストは甦った」という叫びだったのです。
 愛する師イエスを無残な十字架による処刑で失って茫然自失する弟子達を再び立たせたのは、復活の主が彼らに現れて「安かれ」とみ声を掛けてくださった事実なのです。もし、それが事実でなかったとしたら、それに代るような出来事がなければ、弟子たちの変容振りを説明することはできないでしょう。
 キリストの復活が真実であることを示す一番の証拠は、かくも多くの人々が今も生きて働いておられるキリストを信じてその生活が改まり、新しい希望に生きている事実にあると思います。福音書を見ると、主イエスに目を開けてもらった人が、当時の宗教的な指導者たちに難癖をつけられ、イエスを無理やり罪人だと言わせようとするところがあります。目を開けてもらった男はこう答えました。「あの方が罪人であるかどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲人であったが、今は見えるということです。」(ヨハネ福音書9章25節)
「事実は頑固である」という言葉がありますが、事実あったことをなかったことにはできないし、なかったことをあったと言うこともできません。もし、キリストの復活がなかったとしたら、2000年のキリスト教会の歴史は、うその上に建てられた途方もないものになります。キリストを信じて殉教して行った何万、何十万の人々の人生は全く空しい、無意味なものであった、ということです。世界の歴史全体が、虚構の上に築かれた滑稽なものになるとは思われませんか。
 冒頭に記したコリント第一の手紙15章の言葉は、使徒パウロがその章全体を通して復活について弁証している中の一節ですが、その弁証の中で、「もし、キリストが甦らなかったら」と仮定して、
(1) 私たちの宣教は空しい(ただ空しいだけでなく、神にそむく偽証人になる。事実でないことを宣教して神に反する証しをしているのだから)。
(2) キリスト教信仰は空虚(ナンセンス)になる。キリストの十字架による罪の赦しもその根拠を失うし、罪からの解放も絵に描いた餅になる。
と言っています。
 コリントの教会の中には、死人の復活などはあり得ない、と主張する人々もいたようですが、もしそうならばキリストの復活もなかったことになり、そうするとあなたがたクリスチャンは何と虚しい、滑稽な人々かとパウロは言いたいのです。いや、もう少し深く考えてみれば、人生全体が意味を失って、旧約聖書の賢者の言うように、「空の空、空の空、一切は空」ということになりはしないでしょうか。あるいは、「私たちは飲み食いしようではないか。あすもわからぬいのちなのだ」という程度の人生だと諦めるほかはないということでしょう。
 けれども、使徒パウロは虚無と絶望が迫ってくるこの世に対し、自ら復活のキリストに出会い、キリストによって使徒として立てられた自覚に立って断固としてこう宣言するのです。『しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中から甦ったのである!』と。
 ここに本当の希望が見えたのだ、キリストが死に打ち勝って、初穂として最初に復活したのだ、だから、キリストに結ばれた私たちも、やがて復活する時が来るのだ、神は、虚しくこの世界を造られたのではなく、大きな目的をもって万物を創造し、私たちを生かしておられるのだと聖書は告げているのです。もしそれが本当なら、何といううれしいメッセージではありませんか。
 イエス・キリストの十字架と復活の事実にしっかりと目を留め、その意味を探って行くとき、私たちは生きとし生けるものすべての生存に意味を見出し、また、泡沫のような哀れな存在である私にも、「あなたも生きることが出来るし、生きてもよいのですよ」という神の語りかけを聞くことが出来るのです。どんな人も、この神の語りかけの外にいる人はいないと確信します。私たちは、この神の呼びかけに素直に耳を傾けて、虚無と絶望の迫るこの世界において、希望の明日に向かって明るく力強く生きようではありませんか。神ご自身がそのことを強く願っておられるのですから。
 「主(キリスト)にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っている。」(コリント第一 15章58節) 
西川口教会  島隆三牧師
(しま りゅうぞう)

※ 島隆三牧師は、2004年4月仙台青葉荘教会に転任しました。




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