2001年8月のみことば

何をしてほしいのか

 一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダ゜ビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるになり、なお道を進まれるイエスに従った。
                (マルコによる福音書10章46節〜52節)

[1]
 最近、話題になっている本で『大切なきみ』(You are Special、マックス・ルケード著、いのちのことば社)という小さな本があるのでその内容を簡単にご紹介いたします。 ここに登場するのは、木彫りの小人たちと、その小人を作った木工職人のエリです。木工職人エリは村の小人たち全部を一人で造りました。
 村の小人たちは、毎日、互いにシールをくっつけあうことをして過ごしていました。それは、金色とねずみ色の2種類のシールで、見栄えのいい小人や、才能のある小人には、みんなから金色のシールをはってもらえますが、色がはげているような小人や何をやってもだめな小人は、みんなからねずみ色のシールをはられてしまう、そういうシールでした。体中、金色一色の小人がいるかと思えば、ねずみ色シール一色でみすぼらしい小人もいました。パンチネロという小人もそういうみすぼらしい一人でした。彼は、何をやってもうまくいかず、体中、ねずみ色のシール一色でした。パンチネロは、自分がネズミ色だらけですっかり落ち込んでいるのに加え、「どうせ僕は役立たずの小人さ」と、すっかりあきらめていたのでした。
 ところがある日、パンチネロは、ルシアという、ねずみ色のシールも、金色のシールも、1枚もくっついていなくて、とてもスッキリしている女の子に出会いました。ルシアには、シールをくっつけようとしても、くっつかずにはがれてしまうのでした。パンチネロは、そういうスッキリしたルシアをみて、「どうしたら、そうなれるんだい?」と尋ねました。すると、ルシアは、「毎日木工職人エリに会いにいくといい」と言います。「なぜ?」と聞くと「答えは自分でみつけることね」という返事。
 そこでパンチネロがエリを訪ねていくと、エリは「わたしはおまえさんがくるのを今か、今かと待っていたんだ」と迎え入れます。「おまえさんは、わたしの子だ。おまえさんを作ったのはこのわたしだ。だから、わたしにとってはかけがえの無い、大切な存在だ」といってパンチネロを抱き上げていいました。これを聞いたパンチネロが「エリは本気で、僕のことを大切に思っていてくれている」そう思ったとたん、ねずみ色のシールが1枚、ぽろっとはがれた。…そこで物語りは終わっています。

[2]
 もうお気づきかもしれませんが、この話の木工職人エリは、神さまです。そして小人は、私たち人間です。世の中が、金色とネズミ色の2種類に、勝手にランクづけされて、自分もそれは仕方ないとあきらめていたパンチネロに、「どうしたらこのシールから自由になれるのか。どうしたらこのランクづけから自由になれて、スッキリできるのか」という問いが、シールが1枚もないルシアに出会って起こされた、という点が大事です。この点が、この物語のひとつのポイントであります。

 小人たち(即ち人間たちは)、自分たちの基準で、シールをはることに終始し、金色とねずみ色で勝手にランクづけをしている。勝手にランクづけして優越感に浸る小人もいれば、劣等感の中に身を沈めてしまうパンチネロのような小人もいる。けれどもシールを1枚もつけていない、スッキリした小人に出会って、小人はびっくりするわけです。世の中の人は全部、金色とネズミ色の2種類のシールで分けられているのかと思っていたら、そうでない小人がいる…シールなんかでランクづけされていない、スッキリした小人がいる。そういう小人に出会って、はじめて、自分がいかにシールに縛られていたか、に気づかされ、何とか自分もこのシールから自由になりたい、という願いが起こされたわけです。

[3]
 先に記しました聖書における、バルテマイという目が見えない、というハンディを負っている人も同じであリました。彼は、「目が見えない」という身体的困難に重ねて、当時の社会では、「病気は罪の結果だ」という誤った偏見を重荷として背負っており、物乞いをすることでしか生きていけない、という二重三重の闇の中に置かれていた人です。そういう苦悩と重荷を負い、いわば心身共に暗闇の中に身を置いて座っていた道端、その同じ道をイエスさまの一行が通り掛かったのであります。
 バルティマイは、その一行が「ナザレのイエス」の一行である、という事を耳にした途端、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫んだ、のでありました。彼は、ただ瞬間的に一度だけ叫んだのではなく、人々がどんなに、彼を押さえ込んで黙らせようとしても叫び続けた、と記されていますから、その勢いは相当なものであった、と思われます。彼は、今、ここですがりつかなければ、もはや一歩たりとも歩けない、という生きるか死ぬかの切羽詰ったすがりつきをイエスさまにしたのであります。それまでのあきらめに似た彼の状況から、イエスさまに出会うことによって、「ここで何とかしてほしい」という必死の願いが起こされたのでした。ここが、先ほどの本のパンチネロの「どうしたらそうなれるんだい」という願いと重ねるのです。
 この叫びを聞いたイエスさまは、バルテマイを呼び寄せます。バルテマイは、喜んで躍り上がってイエスさまのもとに来ます。ところが、そのバルテマイに向かってイエスさまは、意外にも「何をしてほしいのか」と、お尋ねになっています。彼の苦悩は、誰がみても明らかなのに、「何をしてほしいのか」と、おたずねになる…これは一体、どうしたことでしょう。
しかし、イエスさまのこの問いに、バルテマイははっきりと「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えます。イエスさまが、あえて「何をしてほしいのか」と問い掛けて下さったことによって、バルテマイの願いがはっきりと自分の言葉で言い表されたのであります。「目が見えるようになりたいのです」と。
 この願い出を聞いて、イエスさまは「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と宣言なさり、バルティマイは、すぐ見えるようになったのであります。
 ここで、確認したい事はイエスさまは「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃておりますが、その信仰を導いてくださったのはイエスさまご自身に他ならない、という事であります。確かに、バルティマイは熱心にイエスさまに助けを求めました。けれども、バルティマイの信仰がより明確になったのは、イエスさまからの深い問い掛けによってでありました。イエスさまの招きと問い掛けによって、バルティマイは、自分が何を願っているのかをはっきり見出だす事ができたのであります。そして、彼の肉の目が開かれた事によって、彼は「なお道を進まれるイエスに従った」のであります。彼がどういう思いで、主イエスに従ったかは、記されておりません。しかし、少なくとも、彼が「憐れんでください」と叫んだ時点では、とにかくこの肉体が癒され、この暗闇から何とか解放して欲しい、という願いに過ぎなかったに違いありません。しかし、肉体の目が開かれた事は、同時に、彼の心の目が開き、 
 「なお、道を進まれるイエスに従った」−イエスの進まれる道は十字架への道です。このイエスに従ったということは、つまり、「弟子になった」ということであります。

[4]
 私達はしばしば、自分が本当は何を求めているのか、自分自身の求めが何であるか分からず、イライラしたり、クシャクシャしたり、落ち込んだりしているのではないでしょうか。子どもたちも、若者も、親たちも、大人たちも、現れる形はそれぞれ違っても、自分の本当の悩み、苦痛、痛み、不安が何であるのかが分からず、苦しんでいる事があるのではないでしょうか。それは、ちょうど、パンチネロやバルテマイのように、です。
 そういう私たちが、心のヒダに触れる深い問いに出会って、初めて、自分が本当に求めていた事、魂の深い所で求めていた事に気付かせて頂く、という事を経験するのであります。

「何をしてほしいのか」
 イエスさまの問いは、私たちの魂の深いところにまで届く問い、であります。
 それは、即ち、私たちの魂を生き生きと生かす、そういう深い問いであるのです。

           
安行教会  田中かおる牧師
(たなか かおる)




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