2001年9月のみことば

 

「それは極めてよかった」

 

「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」

                 (創世記1章31節)

 

聖書の始まりは創世記です。その書き出しは、「初めに、神は天地を創造された。」です。神が天から地まで全部を造ったというのです。もちろんそれは、単なる昔のお伽話ではないし、進化論と矛盾する、などという非科学的な推論を振りかざすことも、意味を持ちません。聖書は地球のつくられ方や、世界の始まりを私たちに告げようとしているのではないからです。神と人間の関係こそが、ここでの中心課題なのだからです。

 この聖書の物語は、紀元前6世紀頃−小国イスラエル(南王国ユダ)が大国バビロニア帝国との戦いに敗れ、人々は殺され、町は焼かれ、神殿は崩され、多くの人は敵の国に連れてゆかれた崩壊の時代に、書き上げられたといわれています。そんな時代背景を考慮しながら読むことが必要のようです。

 体制が崩壊し、国家が滅びた時代に、生きる意味を神に求めたものと言えます。それらの問題のただ中にあって、世界と人間の存在の確かさがどこにあるのかという、当時の人々の問いかけに、答えようとしているのです。

 

2節には「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」と、書かれています。「混沌」は、混乱、空虚で何もないむなしい状態を表します。虚無と言うと、私はネバーエンディングストーリーの物語を思い出します。主人公が希望を失って沼に引き込まれそうになったのも、舞台であるファンタジアを崩壊させる原因も、虚無の働きでした。

 「深淵」は底なしの深みです。それに暗闇がおおっている状態の世界。それらは、死に瀕している私たちの現実を見つめさせます。しかし、その中にも「神の霊」による支配があることを信仰者たちは知っていたのです。

 

3節には「光あれ」と、初めて発せられた神の言が書かれています。この光は太陽や月とかの天体の光ではありません(それらはさらに後で造られるからです)。この光は昼と夜を分ける「時の光」なのです。この世界は神に見捨てられているのではなく、神が語りかけ、神が実現させる世界なのです。

 以下、「〜あれ」が「〜あった」で締めくくられる繰り返しの記述となります。神の命令は必ずその通りになる、というのです。虚無に沈み込みそうになる人間、いや私たちに向けて、神の確かさに立ち返る信仰を呼びさます出来事なのです。そして、神はご自分のなしとげられた業を見て、それを愛し、「よい」と呼び、それを保持しようとしておられるのです。

 

26節から人の創造が書かれています。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」という神の言です。とりあえず「我々」は気にしなくて良いです。「神にかたどって」とは「支配する力」であることが、続く文章から分かります。正確には、管理する力であり、しかもそれは、神さまが人間に預けてくださっているに過ぎないものだということも考えておく必要があります。

31節の創造の終わりに、神は「見よ、それは極めて良かった」と言われた。

 神は確かに「良い」。と言われるのだけれど、それに対して私たちは「良くない」と常につぶやくのではありませんか。

 創世記の3章にでてくる、善悪を知る木の実(リンゴとは書いていない)を食べて、人は罪に堕ちたという物語も、神の言葉に対する不服従であり、神の言葉に対する反逆として描かれています。

 人間の願望は、どこまで行っても良くなること。その根底にあるのは、今私のいるここはダメで階段をあがった先で良い私になれるという、やがて良くなるという図式。

 だが、神はそのようには言いませんでした。存在そのものとして人に生命を与えられたときから、つまり人間誕生の始めから「極めて良かった」のですから。

 

 地球上の60億と言われる人口の内20億人はキリスト教といわれます。それ以外のいろいろな宗教の存在をご存じと思います。

 「あなたは95%良いけれど、足りないものがある。5%の努力をしたら救われます。」などと言われたら、分かりやすいし、力を出しやすいかも知れません。私の娘が小学生の時、算数のテストで95点をとった時、テスト用紙には「残念!」と大きく赤字で書かれていました。確かに、あと5点で100点なのだけれども、「よくやった!」と書いて励ましてくれた方が、95点もとって喜んでいる娘の気持ちを盛り上げたに違いないと昔を振り返って思うのです。教会の中では、「力を貸してください」という祈りをよく聞きます。これも私たちの不足がわずかしかないように聞こえるので、本当に謙遜な祈りなのか気になることしばしです。

 私たちの存在を「極めて良い」と言う言葉で支配される、その神の支配を否定する生き方をしていないだろうか。

 私たち人間は、より良くなり、やがては神のようになりたいとどこかで願います。しかし、聖書の神は人間の方向とは逆に歩まれ、人となられたと、フィリピの信徒への手紙2章6節から書かれています。「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」と。

 すべての存在の主であるこのお方によって、あなたの人生は書き直される必要があるのではありませんか。私を囲む状況がどうであっても、この存在を神にあって喜ぶ生き方、自分の存在価値を神とその言葉に置く生き方をキリスト教会で始めませんか。

                   埼玉新生教会 中村 眞牧師

 

 

 

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