2002年2月のみことば

 

真理とは何か

 

ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世に属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世に属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証をするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か」

 (ヨハネによる福音書18章35節〜38節)

 

 ユダヤ総督ピラトは主イエスに「真理とは何か」と聞きました。一体真理とは何なのでしょうか。一般的な意味で言うならば、辞書には「真理」は

1.ほんとうのこと。まことの道理。

2.実在的関係・事態を正しく言い表している判断内容の持つ客観的妥当性。

とあります。「真理」とは「正しいことを正しい、間違っていることを間違っている」あるいは「あるものをある、ないものをない」と認めることです。そしてもし「正しいことを正しい」、「あるものをある」とするなら、それを「正しく認識する」ということが大切になります。しかしその場合、「真理」は限りなく広く、また深くなるのは言うまでもありません。

それでは主イエスは「わたしは真理について証をするために生まれ、そのためにこの世に来た。」と言われましたが、それは一体何を意味するのでしょうか。主イエスは前の夜、ユダヤ人指導者、すなわち祭司長や律法学者、そしてファリサイ派と呼ばれる人たちに捕らえられました。彼らは主イエスを殺そうとしていたのです。その理由は、主イエスは安息日であるにもかかわらず病人を癒していたからです。ユダヤ人指導者は安息日にはいかなる労働もしてはいけない、病人を癒してもいけないと教えていました。また、主イエスは人々からの礼拝を受けました。人からの礼拝を受けるということは自らを神とすることで、神を冒涜する以外の何ものでもありません。このようなことはユダヤ人指導者の教えからいえば死罪にあたることでした。彼らは主イエスを石で撃ち殺すというのではなく、十字架につけて殺そうとしました。木にかけられた者は神にのろわれているとされていたからです。これによって主イエスが弟子たちの信じるようなメシアではないことがはっきりします。そのため彼らはローマ総督ピラトのもとに連れてきて、この男イエスは「ユダヤ人の王」と自称していたなどとし、ローマに反逆する政治犯として訴えたのです。

総督ピラトは主イエスに「いったい何をしたのか」と尋ねました。しかし総督ピラトには、この男はローマの支配に反逆する分子の頭とは思えませんでした。そして彼らが訴えているのは妬みによるものであることを鋭く見抜いたのです。誰も罪のない者を十字架につけるようなことはしたくはありません。総督ピラトは何とかして主イエスを助けようとしました。しかし、ユダヤ人指導者が民衆を扇動し十字架につけよと叫び、暴動になりそうになったのを見て、主イエスを見捨ててしまいました。暴動が起きれば自分の総督としての行政手腕が疑われることになるからです。総督ピラトにとっては主イエスの命より、自分の地位のほうが大切でした。

主イエスを捕えローマ総督ピラトに訴えたユダヤ人指導者たちの心の奥底はどうだったのでしょうか。主イエスの教えが広まるにつれ、民の気持ちが自分たちから離れ、主イエスの方に行ってしまったのを知りました。このままでは自分たちの地位や権力、名誉は失われてしまうと恐れたのです。それはまさしくローマ総督ピラトが見抜いたように、主イエスに対する妬みの他、何ものでもありませんでした。ユダヤ人指導者にとっても主イエスの命より自分たちの名誉や地位のほうが大切だったのです。

主イエスの弟子たちはどうだったのでしょうか。彼らはユダヤ人指導者によって主イエスが捕らえられようとしたとき戦おうとしました。しかし、主イエスは剣をさやに納めるよう命じたのです。神の国がこの世に建設されることを願っていた弟子たちにとって、その時が戦う時でないのなら次の機会を待って逃げるほかありませんでした。しかし、主イエスは一人その場に留まられ、ユダヤ人指導者に捕われたのです。名誉や地位に心を引かれていた弟子たちの行動は、結局、主イエスを見捨てる結果になりました。

 

ギリシャ語の「真理」(アレーセイア)という言葉の意味は、事象の背後にある現実、あるいは事実を意味します。また、見せかけや偽りではない事実、事物の本質を意味します。それは覆われているものを取り去り、事実、事物の本質を表に出すということでもあります。ローマ総督ピラト、ユダヤ人指導者たち、そして主イエスに従った弟子たちですらその本心は、結局自分のことにのみ終始していたことが分かります。同じことは私たちにも言えるのです。主イエスに出会うことによって、初めて私たちの心の奥底までも照らし出され、自己中心の罪が表されるのです。

主イエスはローマ総督ピラトに「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったであろう。しかし、実際、わたしの国はこの世に属していない」と答えられました。主イエスは「この世」と「わたしの国」、すなわち「主イエスの支配する国」とを分けられます。「この世」にはいつの時代も、戦争、貧困、不正があります。私たちは神がおられるなら何故、このような世を放置されているのか、何故、神の力で理想的な世界を造られないのかと疑問に思います。しかしながらそれらは人の命よりも自分の名誉、地位、財産などを大切にする人間の罪の結果であると言えます。

主イエスの国は神の愛と正義が支配している国です。主イエスは十字架につけられましたが、三日目に甦られ、今も生きておられます。主イエスの復活によって永遠の命こそ真理であって、地位、名誉、財産などを求めるのが人生の目的ではないのを知ります。主イエスこそ道であり、真理であり、命であるのを知って、「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」のです。

 

                    川越教会  木ノ内一雄牧師

 (きのうち かずお)

 

 

 

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