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生贄―― もしその胸に希望を抱いていなかったならば、間違いなく彼女はそれだっただろう。 ジェチナという街は彼女を欲していた。いや、欲していたのは彼女に流れる血だったのかもしれない。長い間、暗黒街と呼ばれてきたその街は、いつしか人を狂わせる場所となっていた。 そこに生きた人間は、大切なものを護るために街を護り、街を護ることで自らの命を落としていった。残された者が抱くのは深い絶望だけ―― それでも、ジェチナは変わることがなかった。この街は人の血と涙を吸い過ぎてしまったのである。 「怖くはないのですか」 不意に声を掛けられて、リニアは視線を上げた。彼女の赤い瞳に映ったのは、赤い法衣を纏った若い男だった。その男の顔を見、リニアは激しい嫌悪感を覚える。 敵と表現するのに、彼以上に相応しいは相手はいないだろう。死霊使いと名乗り、人の運命を弄ぶ男。リニアは人の選り好みはあまりする方ではないが、彼――アレスだけは特別だった。 「恐れを感じているのならば、初めから従順についてきたりはしません」 口調を変え、あえてアレスを見下すような眼差しでリニアはそう言った。 当然、実際に恐怖を感じていないわけではない。足は今にも竦みそうであるし、こうやって話しているだけでも心臓の鼓動は破裂しそうなくらい早くなっている。それでも虚勢を張り続けていられるのは、彼に対する嫌悪感がそれを勝っているからであり、何より彼女はルーク=ライナスという青年を信じているからだ。 アレスに対し威圧的な態度をとったのも、そんなことがあるためである。 だが、リニアはアレスの問いを読み違えたらしく、彼は一瞬ではあるが漆黒の瞳を瞬かせた。しかしすぐに普段の快楽的な表情に戻ると、彼は言葉を続けた。 「私に対してではありませんよ。そんな事は貴女の態度を見ていれば聞かなくても判る」 返ってきた言葉にリニアは心を見透かされているような不快感を覚える。いや、『ような』ではなく、彼は本当にリニアの虚勢も、不安も見抜いているのだろう。その事実にリニアの苛立ちは更に激しさを増した。 「では、何のことを言っているのです」 しかし一方でリニアは、心を読むことに長けた彼ですら理解できないというものに対し、一種の好奇心の様なものを抱いた。彼女はそれを知ることで、自身に余裕を持たせたいという思惑を含めて、アレスにそう訪ねる。 アレスは足を止め、ゆっくりと辺りを見回した後に、それに答えた。 「このジェチナという街に対してですよ」 リニアは初め、アレスの言っていることの意味がわからなかった。アレスはきょとんとしているリニアに構わずに言葉を続ける。 「私は正直この街が怖い。これほど多く、人の運命を取り込もうとする街は私の経験でも稀です」 「それは、貴方がっ」 貴方が狂わせたのではないか。そう言い返そうとしたリニアに、彼はゆっくりと首を横に振った。 「確かに私はこの街に深く関わった。しかし、私すらこの街の意志に運命を導かれたに過ぎない」 「なっ」 リニアは思わず絶句する。それがアレスの本意だということは、彼の様子を見てすぐに解った。常に浮かんでいた笑みが、今の彼の表情にはなかったのだ。それすら演技であることも考えられたが、リニアの直感はそれをあっさりと否定した。 (嘘、じゃない) なぜそう感じたのかはリニア自身にも解らなかった。だが、それは確信だった。 「街が意志を持っているとでも言うのですか」 理解できない納得によってリニアは動揺していた。彼女はそれを誤魔化すように、出来る限りの落ち着いた声色でアレスにそう言った。その質問に、アレスの表情には再び笑みが浮かぶ。 「有り得ない話ではないでしょう。人の想いは時として魔物という存在すら作り出す。ましてや街というものに想いを抱くのは個人という単位ではない。もし、それらの想いが集束したならば、街というものが意志を持ってもおかしくはないでしょう」 街が意志を持つ。それが擬人的な表現であることは解っている。例え街という区切りとして区切りを作ることができたとしても、それは意志を司る境界にはなりえない。もちろん絶対と断言することは出来ないが、この街、ジェチナは違う。 しかし、この街を覆う意志の領域の存在は、確かにリニアも感じていたものだ。とはいっても、感覚にフィルターがかかったようにそれは朧気なものだった。それはリニアにとっては違和感ではあったが、いつしか慣れていったものでもあった。 「それで、結局それがなんだと言うのです。罪の転嫁でも行っているというのですか」 「罪の転嫁」 リニアの言葉の意図はアレスには伝わらなかったようで、彼はおそらく珍しいであろう疑問の声をあげる。リニアは自分の言葉が的を射ていないことを知りつつも、言葉を続けた。 「この街が意志を持とうが、現にジェチナを滅亡へと推し進めているのは貴方でしょう」 リニアは出来るだけ声に感情を込め、強い口調でそう言った。意図してそれを行ったのは、それがリニアの本意ではないからだ。 確かにアレスに対する怒りはある。だが、彼女はアレスがジェチナを滅ぼそうとしているわけではないことも、この街を荒らすことに罪悪感を覚えていないことも理解していた。それでも、リニアはこの言葉を口にしなければならなかった。 アレスの口元が綻ぶのが、リニアの赤い瞳に映った。瞬間、リニアは自分の小細工が相手に通じなかったことを理解する。 「時間稼ぎ、ですか」 リニアが狙っていたのはアレスが言うように時間稼ぎだった。ルークがあの場を収めて、自分を迎えに来るまでの不特定な時間。リニアのとった行動は、その時間を埋めるための足掻きだったのである。 「貴女は本当に面白い。こんな八方塞がりの状況であるにも関わらず、私と渡り合おうとする。それ程にルーク=ライナスを信じているのですか」 「当然でしょう」 アレスの問に、リニアは即答した。彼女は続ける。 「ルークは私を救ってくれた。だから、私はどんなときでも彼を信じる。ルークも、私も、貴方なんかに絶対に負けたりしない」 そう言い放つと、リニアは再びアレスに敵意のこもった視線を送る。それを見て、アレスは笑みを強めた。 「例え信じたとしても、どうすることも出来ないことは存在します。貴女もすぐにそれを知ることになる」 「それは貴方も同じだわ。何でも貴方の思い通りにはさせない」 「面白い。貴女の望みが叶うか、それとも私の計画が達成されるか。楽しい勝負になりそうだ」 アレスはそう言うと、「では、行きましょうか」と言葉を付け足した。リニアはその言葉に従うしかなかった。暗黙ではあったが、彼女は悟っていたのである。このゲームの根底に、アレスに大人しくついていくという条件があることを。 やろうと思えばアレスは今すぐにでもリニアを殺すことが出来る。リニアがこの場を逃げ出そうとしようものならば、彼はそれをするかもしれない。だが、アレスは同時に一つの自由をリニアに与えているのだ。アレスに興味を引かせるという行動を。それによって彼の足止めをすることを。 全ては彼の定義したゲームの上での法則だ。だが、それを護れば、彼は自分に手を出さない。リニアはそれを理解していた。 (貴方が望まなくても足掻いてあげるわ。でも、貴方の望むような未来にはさせない) それがリニアの決意だった。しかし、アレスの目的地である、ジェチナ西の関所は既に目前まで迫ってきていた。
(俺がいる以上、ギルドマスターはリニアを長い間手元には置いておこうとしないはずだ。となれば、リニアの身柄を引き取った後は、すぐ取引相手に接触するはず) リニアを取引に使える相手といえば、何らかの要因を持って赤珠国の魔導同盟運営を邪魔したい虎国か、リニアを探しているという赤珠国の捜索隊くらいしか思いつかない。どちらにせよ、どういった取引相手とはいえ、リニアを交渉道具として使う以上、ギルドにとってもそれは味方ではないはずだ。 (そんな相手の警戒を強めない場所といえば) 土地の境界である場所、そして二人が向かった方向から考えられる場所は―― (西の関所か) それが結論だった。西の関所といえば、ギルドが完全に支配を掌握している場所であり、ルークがリニアと出会った場所の付近でもある。ルークにとっても慣れた場所でもあるため、彼は迷うことなくその最短経路を進んでいた。 しかし、突然ルークは自分に向けられた強い殺気に気付く。それはすぐに攻撃の意識に変わった。 「ルゥゥクゥゥッ」 聞こえてきたのは獣のような声だった。同時に、ルークは真上から弾丸のように向かってくる一つの影を確認する。その男には見覚えがあった。右腕を失った、隻腕の男。 「ワーム=エイザー」
それは赤梟 彼は左手に握った短剣に淡い光を込め、それをルークに向かって突き立てようと、一気に振り下ろした。しかし、今のルークには彼の攻撃を見切るなど、造作もないことだった。 「邪魔をするなっ」 ルークはその場から半身分右にずれ、ワームの攻撃を避ける。そして、右足に重心を乗せると、その溜めを用いて左に一気に瞬発する。 刹那、地面を抉る凄まじい破壊音がその場に響いた。ルークは落下してきたワームの首を掴み、そのまま彼を地面に叩きつけたのだ。ワームの攻撃は決して遅くはなかった。だが、カイラスとの戦いによって感覚が研ぎ澄まされていた今のルークには、それは難しい行為ではなかった。 「ただの復讐か、ギルドマスターの命令かは知らんが、貴様がリニア達にしたことを忘れたわけではあるまい。貴様を殺すことに、躊躇いはないぞ」 聞こえているとは思わないが、ルークはそう言葉を放った。殺してはいない。だが、意識を断つには十分な攻撃だったはずだ。 だが、ワームを押さえつけている右腕に、ルーク突然強い抵抗が生じる。身の危険を感じ、ルークはそれを離すと、素早くワームとの間合いをとった。 「馬鹿な。手応えは確かに……」 驚愕の眼差しでルークはワームを見る。そして、ゆっくりと立ち上がってくるワームの姿を見、ルークは悪寒を感じた。 元々、危険な男ではあった。しかし、今の彼は狂気の固まりだった。あれ程の攻撃を受けたにも関わらずその表情には笑みが浮かび、瞳は真っ赤に充血している。 「残念だったなぁ、ルークぅ。俺は、あの男からデイモスの力と名をもらったんだ。今度はこれ位じゃ倒れねぇよ」 ワームが口にした名前には聞き覚えがあった。ブレスを使いこなす異常能力者の青年。確かに彼も驚異的な耐久力を持っていた。そして、ルークの記憶には、もう一人そう言った能力を持った人間の名が浮かぶ。 (そう言うことか) ルークの中で何かが繋がった気がした。ヴァンパイア、デイモス、そして、竜の力。全てはアレスという男に集束していくのだ。ルークの表情に、陰りが生じる。 「さて、ルーク。ショウタイムだ」 凄まじい量の精気が、ワームの周囲に集束していく。それは確かに、デイモスと名乗った青年や、竜となったカイラスに感じた感覚と同じものだった。 狂気に包まれながら、ジェチナの崩壊は更に加速を始めた。
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