リ ニ ア の 日 記
第五章 滅亡への序幕

An assassination


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「ようやくだな」

 それは若い男の台詞だった。

 その声の主は、暗闇に身を任せながら静かに手に持ったグラスを傾ける。カランという音が誰もいない部屋の中に響いた。

 夜だというのに部屋には灯りはない。闇が好きだというわけではないが、今の彼の心境には黒がひどく相応しく思えたのだ。そんな中、ただ窓から差し込んでくる月明かりだけが、男の褐色の肌を淡く照らしていた。

 彼はこのジェチナの有数の医者であり、二つある街の治安維持機関の一つ、エピィデミックの幹部である男だ。身長がある反面、体格は細く、一見優男と見られがちではあるが、彼がこの街に持つ影響力は限りなく大きい。

 そして立場こそ一幹部ということになっているものの、実質、彼がエピィデミックの全権を握っているのは周知のことだった。

「これで、私の念願が叶う」

 呟いて、男は再びグラスに口をつけた。彼が酒を飲むことなど珍しいことだった。決して嫌いな訳ではないのだが、彼がエピィデミックの幹部となった頃から、それは僅かな気晴らしのための道具として使われるようになっていた。

 裏切り、一言で言えば、彼の成そうとしていることはそれだ。それはエピィデミックに入った時も今も変わらない。裏切りの対象となっている物は、それこそ手で数えるよりも多い。組織に連なる者、仲間と呼んでいる人達、そして唯一の肉親……。

 だが全てはこの街に変革の風をもたらすためだった。だからこそ、彼はその痛みにずっと耐えてきた。そしてその痛みはこれからも伴うものだろう。如何に後世に称えられたとしても、その罪悪感からだけは逃れることができない。彼はそういう男だった。

 しかし、今この時だけは心地よい酒が飲みたかった。ずっと耐えてきた、そして耐え続けなければならない痛みを伴う人生の中で、念願が成就しようとしている今だけが、彼にとって安息が許された時なのだ。

 机の上には、故神祭の夜に写した一枚の写真が置いてあった。男はそれを眺めながら小さく笑う。

 弧扇亭の一同と過ごした時間、それは彼にとってかけがえのないものだ。仲間と呼べる人間がいて、それに加え敵対していた者達さえそこにはいる。それは、それまでのジェチナでは考えられなかったことだ。

 かつて暗黒街と呼ばれた街、それ故にずっと変革を拒んできた街である。だが外部から二つの事象が入ってきたことによって、少しずつではあるがジェチナは自ら変革を受け容れるようになってきているのである。

「必要なものは、揃ったのだ」

 そしてその二つの欠片こそが、彼の計画を推進させるきっかけになったのも確かだった。

 最初から用意していた布石、それを熟成させる時、計画を確実にする欠片、その全てが男の手の中にはある。そして計画を発動させるための対話が今日成されたのだ。敵と呼んでいた連中の手を借りて、明日にでも計画は実行に移される。

(いや、違うな)

 男は頭の中に浮かんだ敵という言葉を訂正した。確かに立場としては相対していた者達ではある。だが志だけを言うのならば、自分と彼らには相違点はなかった。少なくともエピィデミックという組織そのものに対して、彼が感じていた程にはだ。

 そして、だからこそ彼らは自分の計画に加わってくれたのだ。

「これでジェチナは夜明けを迎える」

 ずっと大きな戒めに束縛されていたその街に、ようやく陽の光を当てることが出来る。その事を考えれば自分が背負った運命など全く小さなものだ。何より自分にはこの街を返ることが出来たという充実感が手にはいるのだから。

 そんな想いを胸に抱きながら、男は三度グラスを傾けた。

「さすがはヴァイスが認めた男だけはありますね」

 突然、部屋の中に若い男の声が響いた。その声に強い警戒を抱き、男は懐から素早く短刀を取り出した。護身用のもので、斬り合うといった作業には不向きな武器ではあるが、これは魔導の技法を秘めた魔導器という道具だ。武器としては申し分はない。

 それよりも、問題は相手である。戦いの経験が少ない彼にとって、自分の手に負える相手なのか、それが最も大きな問題だ。男は額に汗を滲ませながら、部屋の入り口にいる男を見やる。

 初めに目に入ったのは、赤い法衣だった。まるで血のような深紅の法衣。その容貌に男はぎくりとする。

 聞いたことがあった。紅の法衣に身を包んだ魔導師の男の話を。とはいっても巷や、彼が住む世界に流れていた話ではない。それは目の前の男の言葉にあった、ヴァイスという男から聞いたものだ。

 そしてその男がヴァイスの名を出したことが、彼の予測が正しいことを証明していた。

死霊使いネクロマンサーアレス」

 男は呻くようにその名を口にした。

 運命を弄ぶ者、ヴァイスが彼を評価した言葉だ。死を超えたとまで言われる魔導の技法を会得しながら、自らの愉悦のためだけにそれを利用する男。そういう人種なのだという。

「私に、何のようだね」

 出来る限り動揺を抑えながら、彼はゆっくりとそう言葉を吐いた。正直、恐怖という感覚が突然吹き出したのを男は感じていた。それは人からの伝聞が云々というわけではなく、男自身、アレスという男から得体の知れない雰囲気を読みとっていたのだ。戦闘経験が乏しいといっても、一組織を掌握している人間である。人の性質を見る能力は、常人よりも長けている。

 アレスは強い警戒を見せる男に、にやりと不適な笑みを浮かべる。

「一度、貴方と会いたいと思っていたのですよ」

「どういう意味だ」

 男は訝しげに顔をしかめた。心当たりがないと言えば嘘になる。男が成そうとしようとしていることを考えれば、彼がそれに興味を持ったとしてもおかしくはない。男は警戒を強め、持った短刀に、ゆっくりと精気を込めていく。

 ヴァイスが警戒を呼びかけるほどの能力者だ。もちろんアレスもそれに気付いていなかった訳ではないだろう。しかし彼は気に留める様子もなく、言葉を続けた。

「貴方の手腕は聞いています。騒乱が続いたこの街で、貴方ほど明確な理想を持っていた人間はいないでしょう。確かにそれは途方もないものだったが、貴方はそれを成そうとしている」

 そしてアレスは言葉を一度止め、静かに瞳を閉じる。

「ヴァイスに力を与えることで、それに間接的にでも関われたことを嬉しく思っているのですよ。傍観者ではあったが、これ以上なく楽しむことができた」

「ならば何故今更になって舞台に上がろうとしている。傍観者ならば傍観者らしく、幕が閉じるのを待っていればいい」

 男はひどく苛立ちながらそう言葉を返した。アレスが何をしようとしているのかは解らないが、ここで不確定な因子を計画に加えるわけにはいかない。少なくとも、自分の器でどうにか出来る相手ではない。焦燥は募るだけだ。

「面白そうな依頼が入ったのですよ」

「依頼?」

「そう。しかも、アサシンギルドのギルドマスター。そして、エピィデミックの大老から、似たような依頼がね」

 それを聞いた瞬間、男の背筋には戦慄が走った。同時に、逃げなければいけない。そんな意志が即座に働く。だが彼の意志が身体に伝わることはなかった。

「無駄ですよ。私の瞳は貴方を捉えている」

 まるでその台詞が、身体を締め上げていくかのように――

「貴方はもう動くことが出来ない」

 そしてその一言が、男への呪縛を完全なものへと変えた。身体全体の力が抜け、男はそのままその場に倒れ込む。

「これが邪眼イビルアイなのか」

 呼吸でさえままならない戒めの中で、ようやくその言葉だけを口にした。アレスはその一言に妖艶な笑みを浮かべる。

「そんなことは死に行く貴方には関係がないでしょう」

「くっ」

「確かに貴方は有能だった。だが、計画を発動する前に動きすぎた。両組織の長が貴方を恐れたのも頷ける。現実に、貴方は事を起こそうとしているのですからね」

「何故だ……」

 男は呻くようにそう言葉を吐き出した。

「貴様は傍観者でありたかったのだろう。少なくとも、こんな途中から参加するといった中途半端な舞台に参加したかったわけではあるまい。何故、あんな腐った老人共に組する」

 それは命乞いでしかなかった。その言葉が意味が持たないものだと解っていても、そしてそれがどんな惨めなものであっても、男は生きることを最後まで諦めるわけにはいかなかった。

 だがアレスは男を楽しそうに眺めながら、ゆっくりと言葉を返した。

「私は有能な者が好きです。だがそれと同様に愚かな者も好きなのですよ。有能な者は舞台の華となり、愚者は舞台に人間味を与えてくれる。妬みや裏切りをもってね」

「くっ」

「貴方という目の前の障害に気を取られ、貴方が死んだ後にどうなるのか気付かないエピィデミックの長は明らかに後者でしょう。それに、貴方の望む世界に、一つだけ気に入らないことがあるのですよ。」

 そして、アレスは嗤った。

「私は、赤珠族が嫌いなのですよ」

 アレスが言い終わると同時に、一筋の閃光が煌めいた。

 次の瞬間、目に映ったのは宙を舞う赤い液体だった。それが自分の血だと気付いたのは、口から大量の血を吐き出した後だった。

 不思議と痛みはなかった。だが男はそれが致命傷であることを瞬時に理解していた。医者であるが故にである。

「せめて、痛みを感じずに死になさい」

 そんな声が耳に入ったが、そんなことはどうでもよかった。それほど長いとは言えない人生、その記憶が走馬燈のように頭の中を巡っていた。そして、そんな中、彼の脳裏には一人の少女の姿が映った。

 褐色の肌の、彼がずっと見守ってきた少女。

「ジェシカ……」

 何に代えても護らなければいけないと思った存在。それは、残されたたった一人の肉親の名だった。全身の感覚がない中で、頬に熱い物が伝っていくのだけは、しっかりと感じることが出来た。

 これからこの街を舞台に惨劇が繰り広げられるのは解っていた。だが、彼にはもうどうすることも出来ない。組み上げていた歯車は、既に崩れ始めているのだから。

 強い罪悪感、そして激しい無力感を感じながら、男はゆっくりと迫ってくる静寂の中に身を任せていった。

 その後、彼が再び瞳を明けることは、もう無かった。



 翌日、一つの知らせがジェチナ中を駆け巡ることになる。

 ジェイク=コーレンの暗殺。それはジェチナ全域に衝撃を与えるのだが、それはまだジェチナ崩壊の幕開けでしかなかった。


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