リニアの日記

第一章 赤い瞳に映るもの
〜a meeting〜



(逃げなくちゃ・・・)

 少女の頭の中では、その言葉が幾度となく繰り返されていた。

 どれくらい森の中を走っただろうか? さほど長い時間を走ったわけではないが、薄暗い森の中を、しかも道でないところを走ったために、ただでさえ少ない少女の体力は、既に限界に近づいていた。腕に大きな傷を負っていることも、その要因の一つだろう。

 しかしそれでも少女は足を止めるわけにはいかなかった。何がどうというわけではない。彼女は追われていたのだ。明確な理由は、彼女にも分からなかった。

 ただ、追っているのは盗賊の類の連中ではないことは理解していた。連中が盗賊といった類ならば、馬車の荷台に積んである宝石などを狙うはずである。

 だが彼らはそんなものにも目をくれずに、明らかに自分を追っている。間違いなくだ。

 そうなると、彼女には幾つかの心当たりがあった。もしそれが現実の物ならば、彼女は絶対に捕まるわけにはいかなかった。例え全てが偽りだとしてもだ。

(最悪の場合は・・・。)

 少女は手に握った短刀を見やる。最悪の場合、彼女は捕らわれることよりも、死を選ぶつもりだった。死ぬことが怖くないわけではない。だがそれよりも、彼女は自分の義務を全うしなければならなかった。

(今が一番大事な時期なのよ。利用されることは、許されない。腕一本だって、渡しちゃいけないの。)

 身体の一部分とて、脅しとして利用される可能性はあるのだ。万が一の場合は身体を焼いてでも自分という存在を消さなければならない。

 そして幸い、なのかどうかは彼女自身判らないことであるが、この短刀にはそれだけの事をする能力が込められていた。

「きゃっ。」

 考え事をしていたためか、彼女は木の根に脚をとられ、その場に転がる。地面で膝や腕を擦りむき、しみるような痛みを感じるが、それでも彼女はすぐさま立ち上がり、その場を立ち去ろうとした。

 だが・・・、彼女の前には一人の男がいた。黒い装束に身を包んだ、背丈の高い男・・・。その瞳は漆黒で、まるで全てを吸い込むかのような、空洞のようだった。

 一瞬、少女は自分がその男に見とれているのに気付かなかった。まるで心を捕らえられていたかのようにだ。

(もう、逃げられない。)

 少女はすぐに正気に戻り、短刀に精気を収束させた。

「炎の怒りよ! 」

 彼女は、目をつぶりながら言葉に力をのせ、事象を構成していく。魔導と呼ばれる技法の力である。

 彼女の周り、正確には彼女の持っていた短刀に、精気と呼ばれる一種のエネルギーが収束する。それは一瞬のことだった。

 だがその一瞬の間に、男は彼女が持っていた短刀を、右手の甲ではじき飛ばした。それもまた、一瞬のことだった。

 男は見下ろすように少女を見ると、ほとんど感情の籠もっていない声で、彼女に言った。

「目障りだ。死ぬなら余所でやれ。」

「え? 」

(この人、違うの? )

 少女は目の前の男の口調から、彼が少女を追っていた連中とは違うことを理解する。

「ご、ごめんなさい。」

 何に謝っているのか、少女自身解らなかったが、とにかく今はこの場から離れなければならなかった。未だ少女が危険であることには間違いはないのだ。

 だが、それは既に遅かった。

「いたぞ! 」

 ただ事でない声が聞こえてきたのは、丁度そんな時だった。そこにいたのは、黒装束を纏った数人の男達だ。紛れもなく少女が乗っていた馬車を襲った男達である。

 いつの間にか、男達は少女達を取り囲んでいた。数は3、逃げ道はない。

(どうしよう。この人まで巻き込んでしまった・・・。それに、短刀はもうない。)

 死ぬこともできない上、目の前の男を巻き込んでしまったことに、少女はひどく後悔した。だが、男の方は囲まれているというのに、表情を変える様子もなく、その黒装束のリーダー格の男に、静かにこう言った。

「アサシンギルドの氷の閃光直下の精鋭一同が小娘一人に何を血眼になっている。」

「答える必要はないな。貴様が何者で、何のつもりなのかは知らんが、その娘はジェチナの未来に必要なのだ。引き渡してもらう。」

 その暗殺者の男は、冷たい瞳で少女の隣に立っている男を睨み付ける。だが、男は全く臆した様子もなく、目の前の暗殺者に言い返した。

「断る。」

「何だと? 」

「別にこの娘に縁があるわけでもないが、貴様らが気に入らない。」

 その言葉と同時に、周りの暗殺者達は構えを取りはじめる。物凄い殺気が、その場に収束していくのが、素人である少女にすら解った。

「だ、駄目、この人は関係ないわっ! 」

(自分のために、この人まで巻き込むわけにはいかない・・・。)

 少女はそう思いながら、男を護るように両手を広げ、リーダー格の暗殺者と対峙する。だが彼女はすぐにその場所からどかされた。

「邪魔をするな。」

「で、でもっ! 」

「邪魔をするな、と言っている。」

 そう言ったときの、男の瞳を見て少女は凄い寒気を感じた。この場に集まっている殺気すら歯牙にかけないほどの冷たい瞳・・・。だが男からはまるで殺気が感じられなかったのだ。

 それはまるで相反する感情の矛盾だった

「死ねぇ! 」

 そんなやりとりの隙を、暗殺者の一人は身のがさなかった。その暗殺者は、懐から短刀を抜くと、そのまま男の首元に斬りかかる。

 そして次の瞬間、雨のような赤い鮮血が少女に降りかかった。だが斬られたのは男の首ではない。ごとり、という音と共に、男に斬りかかった暗殺者の右腕がその場に落ちる。

「ぎゃあぁぁぁっ。」

 暗殺者の絶叫が、場に響きわたる。暗殺者は、切断された右腕の付け根を抱えながら、その場を転がり回る。

 男は武器は持っていなかった。暗殺者の腕を切り落としたのは、彼の右手の人差し指と中指だ。正確に言えば、その二指が放っている、淡い光である。

 男は変わらない、冷たい目をしながら、下で藻掻いている男など眼中にない様子で、残りの二人を見やる。

「二度は言わない。次は、殺す。死にたくなければ消えろ。」

 静かでありながら、ひどく重々しい男の声に、残った二人の暗殺者は一瞬怯む。そして、格下だと思われる方の暗殺者が、恐怖が入り交じった声で呟いた。

「死神ルーク。」

 そう呟いた暗殺者は震えていた。目の前にいる男が、如何に格が違う相手であるか、ようやく理解したのだ。だがもう片方の、リーダー格の暗殺者は、それを認めようとはしなかった。

「死神だとっ。だから何だというのだ! ジェチナのアサシンギルドをなめるなっ。」

 リーダー格の暗殺者は、恐怖をぬぐい去るようにそう叫ぶと、死神と呼ばれた男に向かって斬りかかっていった。そして、同時に男も動いた。

 男の姿は一瞬ぶれると、次の瞬間、その場からは消えていた。そして更に一瞬の間の後に、その場には赤い雨が降った。

 そう、赤い雨と表現するのが正しいだろう。散ったのはまたも真っ赤な鮮血だった。見ると、男に突進した暗殺者には首がなかった。そして本来なら頭があったであろう場所から、吹き出すように血が飛び散っていたのである。

「次は、貴様だ。」

 瞬時に、男の標的は既に戦意を失っている、もう一人の暗殺者に移る。そして男がそれを実行しようとした時、彼に向かって飛び込んでくる一つの影があった。

「駄目えぇぇっ!! 」

 そう叫びながら飛び込んできたのは、襲われていたはずの少女だった。彼女は目にいっぱいの涙を溜めながら、男の腕にしがみつく。

「逃げてぇっ! その人を連れて、速くっ!! 」

 少女のその叫び声は、最後に残った暗殺者に向けられた物だった。初め、その暗殺者は事態が全く把握できていないようだったが、すぐに慌ただしく行動を始めた。

「邪魔だ。どけ。」

 一方男は、右腕にしがみついている、その少女を睨みながら、静かな声でそう言うと、彼女を振り解こうとする。だが、少女は腕に必至にしがみつきながら、更に叫んだ。

「あの人は、もう戦意を失っているわ! もう止めて!! 」

「追われているのはお前だろう。今殺しておかなければ後悔するぞ。」

「解ってる。だけど、貴方、苦しんでるじゃない! 」

「!!! 」

 その少女の一言を聞き、それまで淡々と話していた男の顔に、初めて驚きの色が浮かぶ。腕を掴まれたときでさえ、男は驚かなかったにも関わらずだ。

 気付くと、そこに暗殺者の姿はなかった。いまの騒ぎに乗じて逃げたのだろう。もう一人の、腕を斬られた暗殺者を連れて。

「もう、いいだろう? 」

 そう言って、男は少女は再び少女を見やる。彼女は二人がいなくなったのを確かめると、安心したような笑みを浮かべ、そして気を失った。

「お、おい。」

 男は力無く地面に崩れていく少女を、慌てながら支える。見ると、彼女の左腕は血で真っ赤だった。返り血ではない。彼女の血だ。

「一体何なんだ・・・。」

 男は頭を掻きながら、愚痴るようにそう言うと、自分の黒装束の裾を破り、彼女の腕にくくりつけた。応急処置の止血である。

 そして彼女を背負うと、そのままその森を後にした。

 これが二人の出会いだった。そしてこの出会いこそが、ジェチナと呼ばれる街を舞台に繰り広げられる、大きな出来事の幕開けであることを、彼らはまだ気付いていなかった。





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