87号は小林戦隊長機もどき


 87号という3式戦もまた「小林戦隊長機」だとする説がある。本件に関しては余りに情報が乏しく、推測を主とする以外にないのだが、敢えて検証を試みることにする。

 本説の唯一の根拠は、明野で撮影したとされる写真である。この写真には暗緑色の3式戦の機首から胴体日の丸の一部までが写っており、注目されるのは、風防下に描かれたB29×12、小型機×2、計14個の撃墜マークである。
 この撃墜マークは、戦隊長が主用した4424号などに描かれたものと酷似しており、おそらく、244戦隊の整備隊が描いたことは確かであろう。

 この写真のオリジナルを私は見たことがないが、「20年4月」とのメモが付記されているという。だがこれが事実とすれば、このメモは誤りなのだ(たぶん戦後になって書いたもの)。何故なら、小林戦隊長が14機目の戦果(撃墜破合計)を記録したのは4月30日のことだからで、本機が撮影されたのは、どんなに早くとも
5月初めということになる。

 次に、5月初頭から16日までの間(戦隊は17日に調布を出発)に小林戦隊長が明野に出張した事実は、記録上では一切認められない。万一、出張があったとしても、既に運用されている5式戦を使ったと考えるのが順当だろう。
 では何故、このような3式戦が明野に降りたのだろうか…。次の3つの可能性が考えられる。

(1) 特攻隊長機
 20年4月から5月初めにかけて戦隊に配属されてきた陸士57期の特攻隊長らは、小林戦隊長の明野高松分教所時代の教え子であり、戦隊長が彼らの武運を祈って自らの愛機を譲ったことは戦隊史に記述の通りである。
 4424が高島少尉に渡った以外の具体例は不明だが、55、56、159、160各隊ともに明野を経由して知覧に向かっていることからして、87号もこの中の1機ではなかったか。

 しかし、既述のように戦隊長用機が常時何機も存在するわけがない。図のように、本機の撃墜マークは数こそ4424と同じだが、小型機2機分の記入位置が異なっている。

 4424のマークは、基本的には戦果記録の度に描き足されたもので、順序はほぼ戦歴通りだが、87号では違っている。これは、20年4月中旬に戦隊長予備機となった5262号と同様、14個全てを一度に描いたため、小型機分の位置を誤ったとも推理できる。つまり、本機は戦隊長が実際に搭乗した機体ではなく、特攻用機に、「死化粧」として戦隊長機と同様のマーキングを施したものではなかったか…。

 但し、この写真では、本機には落下タンク架(爆弾架)が装備されていない。これは特攻用機としてはあり得ないことで、この点には疑念が残る。

4424号のスコアマーク

 上が4424の撃墜マーク。下の87号は小型機2機分の
位置が違う。おそらく14個をまとめて一度に描いたもの。

87号のスコアマーク


(2) 特攻隊誘導機
 もう一点注目すべきは、本機のアンテナ支柱は中程が白く塗り分けられていることだ。これは、未熟操縦者が編隊を組む場合に、機間や位置をとり易くするための目印、あるいは教育用機を示す標識と思われる。
 それから考えると、特攻諸隊を調布から知覧まで引率誘導する任務に就いていた戦隊本部横手少尉乗機の可能性もある。
 ただ、やはりこの場合でも、落下タンク架が未装備とは考えにくい。

(3) 留守本部使用機
 244戦隊の留守隊長であった大貫明伸大尉は、かつて68戦隊に所属してニューギニアで戦った3式戦のベテラン操縦者で、特攻諸隊の教育も担当していたことから、大貫大尉が本機を使って明野まで出張した可能性はある。だが、大貫氏は既に物故されているため、確かめようがない。

 上記のいずれであったとしても、本機を「小林戦隊長乗機」と称することはできず、
小林戦隊長機もどきとしか言いようがないのである。


横手少尉機の可能性が大

 実は今まで、上記(1)または(2)の可能性が最も高いと考えてきたのだが、いずれにしても落下タンク架が装備されていないことが疑念として残り、釈然としない思いを抱いてきた。
 しかしこれは、調布から知覧への往路だと思い込んできたからであって、これがもし帰路であるとすれば、次のような説明もつく。

 往路は付けていたはずの懸吊架を外したのは、知覧では備蓄不足のため、特攻機以外には満タン分の燃料を補給してもらえなかったという理由が想像される。
 この場合、空のタンクを下げても抵抗になるだけなので、軽量化のために懸吊架も外してしまったのだと思われる。これには、後日知覧から八日市へ5式戦を空輸する際にも、知覧では満タンにできず、防府までの燃料しか積めなかったという類似の事例がある。

 以上の推理が正しければ、本機は特攻用機ではなく、55および56振武隊の誘導任務を終えて帰路にあった244戦隊本部、横手興太郎少尉(航士57期 20.5.28 戦没)の可能性が甚だ高くなる。

 横手少尉機である可能性を高める材料は、もう一つある。
それは、この写真の撮影者とされる人物が、横手少尉とは航士同期で、乙学も戦闘班だということ。

 外来機が降りてきた場合、その基地の操縦者の関心は、同期あるいは知己が乗っているのか否かに集まる。もしそうなら、旧交を温めて情報交換というのが通例であるので、撮影者と横手少尉の間に面識があったとしたら、再会した際に彼の飛行機を写したのかもしれない。

 ただ、何故「戦隊長機もどき」だったのかは、定かではない。既述のように、小林戦隊長が、かつての教え子への餞(はなむけ)とすべく準備させた機体が、整備上の都合等で誘導機に使われることになったとも考えられるのだが。


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