司偵振武隊
12.1.25

 昭和20年3月中旬、前月末から調布飛行場東地区に配置され、再度関東に来襲すると予想された敵機動部隊攻撃に備えていた第44振武隊の武田遊亀伍長は、調布で再会した少飛同期の山下巍伍長に誘われ、新宿のレビュー小屋「ムーランルージュ」へ遊びに行った。

 その帰り、京王線新宿駅で電車を待っていると、東航の同中隊で司偵へ進んだ熱田稔夫伍長に出会った。彼は飛行第28戦隊に所属しており、
「百偵に乗ってタ弾を使った邀撃をやっている。今、調布に来ている」
と話した。熱田伍長が調布飛行場に来ていたのは、新たな特別攻撃隊編成のためであった。

 3月22日、調布飛行場西地区の独立飛行第17中隊を編成担当として、100式司偵を使った初の特別攻撃隊が編成された。司偵振武隊である。

 司偵振武隊は、100式司偵3型6機、2型4機の計10機を使用し、隊長竹中隆雄中尉(陸士56期)以下14名の隊員で構成されていた。偵察者あるいは通信員はおらず全員操縦者であったから、飛行機は編成時、4機が不足していた。
 竹中隊長の実家は、代々、表千家茶家(家元の側近)の家柄であり、もしも戦争がなければ、彼も表千家の重鎮となっていたかもしれない。

 100式司偵3型は、陸軍随一の高性能を誇る優秀機であった。勿論、特攻用機としても有用だったが、特攻用機は当然のことながら使い捨てが前提であるので、員数に相当の余裕のある機種でなければ採用できず、また特攻要員に充てる操縦者の抽出あるいは養成も容易ではなかった。天号作戦に用いられた司偵特攻隊が1隊に留まったのも、ここに原因があると考えられる。
 但し、続く決号作戦向けには、計6隊(48機)が編成されており、調布で2隊、館林で4隊が錬成を重ねていた。

 司偵振武隊は短い訓練の後、26日頃、調布を発って福岡県蓆田へ向かった。そして4月5日頃、同隊は蓆田で出陣式を挙行した後、竹中隊長、東田一男少尉(航士57期)、吉原重発軍曹(少飛9期)、中澤忠彦軍曹(少飛11期)の4機が大分を経由して出撃基地である鹿屋へと移動した。振武隊編成表によると、鹿屋到着は4月6日と思われる。

 これら4機は海軍80番(800kg)爆弾を着装していたが、陸軍の特攻機がわざわざ海軍の爆弾を着装したのは、同じ爆弾でも特性の違う陸軍用では敵艦艇の破壊に効果的ではなかったためで、陸軍でも対策として弾体の強化改修を急いでいた。が、いったん大量の火薬を抜き更に充填せねばならない危険且つ手間のかかる作業であったために多くの時間を要し、既存の海軍用爆弾を流用せねば作戦遂行に支障があったからである。
 因みに97戦の場合には、海軍25番(250kg)爆弾を懸吊すると、全長が長いために尾部が地面に接触する可能性があり、危険なため、尾翼部を切除する必要が生じたという。

 では、陸軍の特攻機が何故、海軍基地から出撃したのだろうか?
 まず、天号作戦は台湾沖航空戦に次ぐ
陸海の協同作戦であり、陸軍特攻作戦を遂行する第6航空軍は、20年3月19日から5月26日までの間、連合艦隊司令長官の指揮下に置かれていた。通信網の整備が間に合わず、実現を見なかったが、当初は6航軍司令部も鹿屋へ移動する計画であった。

 その上で、4月初頭、司偵の飛行第2戦隊、第106戦隊、第19独立飛行隊の各々一部が鹿屋へ派遣された。各隊は「彩雲」を装備する海軍偵察第11飛行隊の指揮下に編入され、沖縄方面敵艦隊捜索および中攻特攻隊の誘導支援に連日出動したのである。
 しかし、特攻ならずとも、これら司偵機の任務は非常な危険を伴い、4月6日の第2戦隊戸山秀雄少尉機を皮切りに計7機の司偵が未帰還となり、14名が戦死を遂げた。

 また、4月17日には、飛行第62戦隊の4式重爆も鹿屋から特攻出撃しており、司偵振武隊の鹿屋発進にも特段の不思議はないのだが、もう一つは特攻の主基地となった知覧飛行場は複数の戦隊と多くの特攻機で満杯状態にあり、燃弾備蓄にも限りがあって、基地を分散する必要性もあったと思われる。


 4月7日1300、竹中隆雄隊長、吉原重発軍曹が第1編隊、次いで東田一男少尉、中澤忠彦軍曹が第2編隊として80番爆弾を懸吊し、鹿屋基地を発進した。
 その後、誘導・戦果確認のために同行した海軍第131航空隊戦闘第812飛行隊大沼宗五郎中尉機(宮田治夫上飛曹操縦)から、戦艦大和が撃沈されたと同時刻の1440頃、「空母4隻発見」の無線が入ったが、竹中、中澤、大沼機ともに、そのまま未帰還となった。

 東田少尉ら後続の第2編隊は、天候の影響であったのか会敵せず、鹿屋に帰還した。東田少尉、中澤軍曹の2機は、5日後の4月12日1500、再度の発進に至り、未帰還となった。

 竹中隊長らの発進の模様は、下掲の新聞記事に書かれている。記事中「陸軍幕僚長」とあるのは、自ら直協を操縦して鹿屋に来ていた6航軍参謀副長青木喬少将(32期)のことで、彼は戻ってきた東田少尉を面罵したという。

 その場に居合わせた第19独立飛行隊操縦者で航士同期の梶山義孝少尉は、
予、その場に同席しあり。義憤措く能わず、少将を突き刺したき衝動、殺意に駆らる。唯、軍刀を帯び非ざりしを嘆くのみ。
「東田、済まん。怒るなよ。犬死するなよ」
「梶山よ。俺の心は既に無に近い。部下にも犬死はさせられんよ」
 そこに神を拝す

と記している。
(陸士57期航空誌分科編)

 5月14日、蓆田で待機していた隊員に対して出撃が下命された。1040、古山弘少尉(幹候8期)と熱田稔夫軍曹(少飛12期)が発進、1157、山路実少尉(特操1期)と森川不二雄軍曹(少飛11期)が海軍50番(500kg)爆弾を懸吊して発進したが、森川軍曹機は離陸直後に墜落自爆した。他の3機は未帰還となり、突入と判断された。

 蓆田に残った隊員は、出撃命令を待ちながら一部は偵察任務に就いていたが、5月23日、森川不二雄軍曹(少飛11期)は沖縄方面偵察任務中、未帰還となった。


読売報知新聞 昭和二十年四月十一日(水曜日)

陸海一體の特攻隊 精鋭新司偵に爆装 直掩の彗星も空母に突入
【海軍航空基地 小野田報道班員】

 敵機動部隊撃滅戦酣な七日、新基地で図らずも爆装を施した陸軍新司偵特別攻撃隊が彗星に直掩され誘導されて出撃するのを見送った。
 司偵特別攻撃隊に與へられた任務は沖縄列島東方海面で撃破した敵空母救援に向かふ敵機動部隊攻撃である。

 偵察機隊は戦闘指揮所内の一隅で隊長竹中隆雄中尉(満州奉天)以下、隊員達が彗星直掩機隊長大沼宗五郎海軍中尉(横浜市)と共にF隊飛行長M少佐から攻撃指示を授けられている。
 やがて直掩機の大沼中尉が特攻隊長竹中中尉の手を固く握りしめながら「しっかりたのみます」「いやこちらこそ」と握手を交す。

 大沼中尉と飛行長が立去ったのち、竹中中尉を始め吉原重発軍曹(徳島市)以下待機の隊員達が隊長を囲んで握り飯の簡単な最後の昼食をすませた。
 「報道班員ですが、ここには陸軍の報道班員がをりませんので代わって見送らせて戴きます」
 差出がましくも挨拶した私に「恐縮です」とただ一言答へた竹中中尉は、華なら蕾の若櫻といひたい、小形なうちに端正な青年将校であった。
「司偵特攻隊は名称がありますか」
「私に命名されてはいませんが…」
 隊員達は何れも少年飛行兵や航空士官学校出身の若武者揃ひであった。

 出撃の途中旅館でもらったといふ櫻色の美しいリボンで大きな航空時計を肩につるしている。
 隊長は何をたづねても恥ずかしさうにほほ笑んで答へぬ隊員に代り、「必勝を信じて皆征きます」力強い一言をのこした。
 竹中中尉が隊長としての最後の訓示を隊員達に與へ
「空母が一隻しか認められない時は俺が沈めるから他のものは絶対にぶっつかるな。そして絶対にかへるのだ。ぶっつかる前に眼なんかつぶるなよ」
 聞き入る隊員達の眼が一だんと光り輝いているかのやうだった。

 「タバコはないか」吉原軍曹が隊員の誰かれを捕へてきいている。私が差出すと容易に受とらうとはしなかったが「頂戴します」と漸く口にくわえる吸ひかけの最後の一吹を他の隊員にゆづると「では征くぞ」と元気な聲をのこして愛機目ざしてかけていった。
 食糧もタバコも不自由なのに違ひない。その愼しやかな司偵特別攻撃隊員を眼のあたりにして私は何んだか瞼が熱くなった。

 ずらりと飛行長、地上整備員に至るまでが發進姿勢の特攻機司偵、直掩機彗星の發進を見守っている。
 やがて陸軍幕僚長が見送りにこられた。「しっかりやれ。みんなで力を協せて確実にやっつけてくれ。たのむ」激励する。
 「征きます」それは爆音轟く中にも一だんハッキリ聞える竹中隊長の聲であった。
 大沼中尉の彗星機、続いて特別攻撃隊竹中機、吉原機が相次いで砂塵を蹴ると、晴雲を孕む雨雲のやうに南方洋上さして砂塵を蹴って行く。

 地上では機影が消えるまで皇軍将兵がいつまでも成功を祈りながら手に手に帽子を振って見送った。
 指揮所でも成功如何と心待ちに待つ。I司令、M飛行長の手許にほどなく彗星大沼機(操縦士宮田治夫上飛曹=茨城)が戦場に到達したのであらう、「空母四隻を發見せり」の電信が送られて来た。
 そして二度、三度空母發見の電鍵を叩く大沼中尉の激しい電送も「われ空母…」を最後にぽっきり途絶えたのであった。
 敵空母に突入命中したのであらう、竹中中尉、吉原軍曹の特攻機を母艦上まで誘って直掩機の大沼中尉もまた壮烈な体当り攻撃を決行したのだ。

 還へらぬ直掩誘導機大沼中尉、宮田上飛曹が出撃直前竹中中尉、吉原軍曹の肩を擁してはげましあっていた場面が鮮やかに蘇って来る。
 いまや精鋭司令部偵察機に至るまでが特別攻撃隊となって行く本土決戦の厳しさに、真に一億特別攻撃隊錬成のの要があることを深く銘記しなければならない。


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