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 「飛行第53戦隊時代」について 22.6.15

 夜間邀撃専門で知られる飛行第53戦隊は所沢で編成を完結し、その後松戸へ移動していますが、調布の第10飛行師団司令部の担任で編成が着手されたことは知られていません。私の知る限り、これが確認できる唯一の記録が、ここに紹介する「飛行第53戦隊時代」です。

 

 この「飛行第53戦隊時代」は、2000年代初頭に、現在では消滅してしまった陸士60期ホームページに連載されていたものです。

 この回顧録は、戦隊長児玉少佐(陸士46期、重爆転科)乗機の射手(機上無線)を務めた酒井道雄さん(乙幹、軍曹)が書かれたものです。

 

 おそらく、私家版の冊子から手入力したのだと推察されますが、この冊子について詳細をご存知の方は、是非ご教示下さい。

 ものの本には、同戦隊は昭和19年3月23日、所沢にて編成と書かれていますが、これは誤りで、本書によれば同年4月20日頃、調布で編成作業に着手、24日までに空中勤務者全員集結。25日より操縦者が各務ヶ原へ出向いて複戦の空輸開始。4月30日、所沢へ移動(空輸)となります。

 

調布時代の記述の要旨

  通称号は東部第18426部隊

  司令部は官衙(かんが=役所)なので、女性の事務員もおり、兵站宿舎の食堂は民間業者が運営していた。

 

無線呼出符号

 第10飛行師団司令部 ひのもと

 飛行第53戦隊本部 つくし

 戦隊長     ときむね

 第1飛行隊長 こんごう

 第2飛行隊長 まつうら

 第3飛行隊長 さざなみ

 

 4月30日、根岸軍曹機に同乗して所沢へ移動。

 5月5日、所沢で編成完結。

 

 なお、昭和19年中の記述にも拘わらず10飛師に、わざわざ「天翔兵団」と注釈をつけた記事を見た記憶があります。が、「天翔」の文字符が使われ出したのは、20年4月に航空総軍(帥部隊)が創設されてから(つまり本土決戦準備)以降で、19年中には「天翔」は使われていないと思われます。

 

 100式輸送機のプロペラ発見 22.1.11

 
 タイトルには「発見」としてしまいましたが、このプロペラは、約10年ほど前に現三鷹市大沢総合グラウンド(かつての調布飛行場南地区)で工事中に偶然見つかった3基のプロペラのうちの一つで、当時は2基が飛燕、当該の1基が5式戦のものとされ、報告書も作成されていました。

 しかし近年、当該プロペラに「一〇〇式輸送機二型」の銘板が確認され、終戦時の調布に配置されていた第1総軍司令部飛行班か第1航空軍司令部飛行班の100式輸送機(МC20)のものと判断されるに至り、この度、調査報告書が刊行されたのです。

 何故、埋められていたのかは謎なのですが、飛行部隊の進駐を目前に控えて飛行場整備を急ぐ占領軍が手間を惜しんで、偶々近くにあった壕あるいは「肥溜め」に落として埋めてしまったのではないかと想像します。当時、食料自給のため、飛行場南地区は広い範囲で耕作されており、肥料用の肥溜めも、いくつも掘られていました。

 調布町生まれで、第1総軍司令部飛行班(旧防衛総司令部飛行班)に軍属として勤務されていた故日橋源一さんが、このプロペラのことを知られたらきっと喜ばれたことでしょう。最後にお会いしたとき(飛行場のことが)「忘れられないんだよ!」と、言われていたのを思い出します。


武蔵野の森公園事業用地内で発見されたプロペラに係る調査検討報告書より


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