■ 消えた100式司偵 21.9.5
府中市の農家に、100式司偵の水平尾翼が70年以上も人知れず保存されていたという先日のニュースには驚きました。
そこで、終戦時、調布飛行場に存在した100式司偵の数について考察してみました。
まず、第269振武隊と271振武隊。何れも定数が充足されていたとすれば、各6機で計12機(人員は機上無線手が加わるので各8名)。そのほか写真が残されているのが、東京の司令部へ連絡のため、埼玉県児玉基地から飛来したと思われる第16独立飛行隊の37号機と、調布が基地だった第1航空軍司令部飛行班の1機の計2機。合計14機となります。
しかしそのうち、8月20日、第269振武隊の1機が離陸したまま帰投せず、未帰還となりました。陸地に落ちたという情報は皆無なので、おそらく太平洋上で自爆を遂げたものと思われます。
実は、その三日前の17日、調布東地区に配置されていた第232振武隊の99式高練が2機編隊で飛行中、埼玉県行田付近の水田に墜落転覆、中島喜久治少尉(特操1期)と山口虎夫伍長(少飛15期)の二人が死亡する出来事がありました。
墜落までの一部始終を目撃していた僚機林伍長の証言と、中島少尉の「貴様、日本が負けたのに生きているつもりか?」などの同僚への言動から、本件は事故ではなく覚悟の自爆と判断されました。
おそらく、当該100式司偵の二名も中島少尉機の自爆に触発され、18日からの飛行禁止命令にも拘わらず、あえて禁を破り、意を決して(戻って来れば処罰される)最後の飛行に舞い上がったのではないでしょうか。
なお、同機には少飛16期阿久津義昭伍長が機上無線手として搭乗、操縦は少飛14期加守三千雄伍長との情報がありますが、確認はされていません。 |
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■ 国際航大の教材機 21.5.25 先日、インターネット航空雑誌ひこうき雲に、国際航大のかつての教材機の写真が投稿されているのを見て思い立ち、古いアルバムを 探したところ、変退色気味ですが少し出てきました。昭和46年12月とメモしてあります。 セスナ170B(JA3038と3081)は、二班に分かれて機体とエンジンをオーバーホールしました。私はエンジン班で、完成後何度か試運転を実施しましたが、忘れられない飛行機です。 SNJは下総基地から、タウロンは広島から、昭和46年11月に運ばれて来ました。S55ヘリコプターもその頃、展示されていた調布市多摩川の京王遊園地が閉園になるということで、引き取りに行きました。 後年、疾風の整備で知られる元47戦隊の刈谷正意さんとお知り合いになったところ、学校の浅野校長とは陸軍航空審査部時代に同僚で、開校の際も、刈谷さん所有のエンジンを寄贈されるなど、尽力されたことを知りました。刈谷さんはその当時、調布の伊藤忠航空整備の関連会社を経営されていたそうです。 私のような何の実績も肩書もない者が244戦隊史をなんとか纏めることができたのは、刈谷さんをはじめ、航空の大先輩の方々が、志を同じくする後輩として親近感を持って接して下さったことも大きかったと思います。 |
JA3038と3081 JA3038の上に立っているのは同期生の秋山君 下総基地から持ってきたSNJ。主翼は数十本のポルトで固定されていた S55ヘリ。操縦席からキャビンに通り抜けられるのに驚いた記憶が |
■ 訃報 木内保司氏逝去 21.2.5
特操1期で、そよかぜ隊から第163振武隊に所属された木内保司氏が、昨年12月31日、逝去されました。本年5月、満100歳を迎えられるはずだったとのことです。
木内氏は、大正10年の生まれで、法政大学から特別操縦見習士官を志願して、昭和19年夏、244戦隊に着隊。出来たばかり、4つめの飛行隊「そよかぜ」に配属されました。
そして、20年4月26日、発令された飛244作命第638号で第163振武隊員に任命され、訓練を重ねながら終戦を迎えられました。
隊のメンバーの中では、木内さんが最ベテランで実戦経験もあり、おそらく教官的な立場におられたのではないかと想像します。
30年以上もやっていると、実際忘れていることも多いのですが、木内さんとお知り合いになった端緒を思い出してみると、陸士56期水越勇大尉のご子息からお借りしたアルバムに、昭和19年11月1日、休暇で熱海の陸軍保健所(相模屋旅館)へ水越、木内、片桐重臣少尉の3人で出かけた時の写真とメモを見つけ、問い合わせをさせていただいたのではなかったか、と思います。
当時、B29の初侵入(偵察)があって、3人は急遽、調布へ呼び戻されたのですが、片桐少尉は11月5日に戦死(実際は事故)を遂げています。
こんなに長い間、自分が何故244戦隊と深く関わってしまったのか…、自分自身、不思議で仕方ないのですが、昔、三谷整備隊長から「あなたは戦隊の亡霊に憑りつかれている」と言われたことを思い出します。
理屈では理解できない不思議な何かがあったとしか言いようがありません。
木内さん、戦隊会では何度もお会いして、本当にお世話になりました。感謝しかありません。
244戦隊は遠く遠く去ってしまったと思います。
合掌 ■ 藤井正さんからの年賀状 21.1.7 |
実は戦後になってから書かれた小林戦隊長日誌(知覧の部分)で、戦死したことにされてしまった藤井正さんから今年も年賀状をいただきました。96歳で宛名から全部手書きですから、本当に凄いとしか言いようがありません。 内容は故郷の母上に宛てた暇乞いで 「野を越え山越えやっと九州まで来ました。今日は帰る途中です。明日は京都(あるいは帝都)に着きます。熊本に三日おりました。知覧に一日、長い列車の旅で相当に疲れました。お元気でお暮らし下さい」と、ありました。
8月初め、八日市へ着いてすぐに知覧へ飛行機を取りに行くよう命ぜられ、列車で向かった。途中、一晩、実家に泊まった。 熊本までは順調。空襲で足止めとなり、熊本に2〜3泊して知覧へ。知覧で一泊して翌日、5式戦で八日市へ帰った。8月7日か8日だと思う。 知覧には燃料がないので、防府で補給するつもりでいたところ、ちょうど米戦闘機の空襲を受けている最中で着陸できず、残燃料を気にしながら八日市に帰ったのを記憶している。 しかし、投函地となっている福岡県夜須には行き帰りとも寄ったことはない。誰かに投函を頼んだのかも知れない (消印は8月10日熊本県隈庄)。 244戦隊整備隊は、本隊が八日市へ移った後も知覧と都城に一部が残留しており、知覧の勝島正孝見習士官が率いる一班は、5式戦が全て八日市へ移ったのを見送ってから大刀洗へ移動しました。この葉書は、おそらくその途中で投函されたものと思われます。 この葉書がコレクターの手に渡った経緯は解明できませんでしたが、想像するに、古紙として回収された中から、目ざとい人物が抜き出して古書店等に販売したのではないでしょうか。特に内地発の軍事郵便は残っているものが少なく、価値が高いと聞いた記憶もありますので。 なお、葉書文の中で京都(あるいは帝都)につきます…とあるのは、戦隊の所在地は機密事項で書けないため偽りの地名を書いたのだと考えられます。
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