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 訃報 石岡幸夫氏逝去 20.11.14


 少年飛行兵第11期の石岡幸夫氏が先月、逝去されました。享年96歳。

 

 石岡さんは、昭和18年中から244戦隊に配属されて白井長雄中尉の僚機を務め、その後小林戦隊長の初代僚機となりましたが、波長が合わなかったのか、すぐに同期の安藤喜良伍長と交代しました。その後は生野文介大尉の僚機として飛びましたが、昭和20年1月27日の邀撃戦では、B29に体当たりせんとする安藤伍長の最期の姿を見届けています。

 石岡さんは、昭和20年3月末、板倉雄二郎、松本敏男両少尉とともに飛行第55戦隊への転属を命ぜられ、万世での特攻掩護に従事した後、佐野で終戦を迎えました。

 

 戦隊の基礎を作ったのは村岡英夫飛行隊長なのだから、村岡さんはもっと評価されるべきだ…と言われていたのが強く印象に残ります。

 生野大尉の僚機時代の石岡さんの雄姿は、菊池俊吉氏のカメラにも記録されています。


合掌

 


 報 竹田五郎氏逝去 20.4.4

 244戦隊先任飛行隊長を務められた竹田五郎氏が、去る2月12日、逝去されました。享年100歳。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 竹田氏は大正10年福岡市の生まれ。広島陸軍幼年学校から航空士官学校55期で卒業。軽爆分科に進み、飛行第90戦隊に配属。昭和19年、戦闘への転科を命ぜられ、明野、常陸を経て同年6月、244戦隊に転属して終戦まで先任飛行隊長を務められました。

 戦後は航空自衛隊でジェットパイロットとなり、航空幕僚長そして統合幕僚会議議長で退官されました。

 小林照彦氏が浜松で飛行隊長だったときにも部下で、昭和32年、小林氏が殉職されたときも、当該機は実は竹田氏が乗る予定であったと聞きました。

 

 244戦隊の飛行隊長は3名とも55期の同期でしたが、竹田氏と白井氏はまさに犬猿の仲で、傍で見ていた57期の鶴身佑昌氏(整備第2小隊長)は「張り合いがもの凄かった」と言われていました。両者の間に、おっとりした性格の生野氏が割って入って何とか治めていたということです。

 戦後何十年経っても、竹田氏は白井のしの字も口にしたくなくて、「3中隊」と表現されていました。両者の対立は、もちろん性格の違いなどもあったでしょうが、戦闘分科と軽爆分科の考え方の違いが根底にあるのかもしれません。

 

 これは竹田氏のことではありませんが、私も戦隊員各位とお会いする中で、戦闘分科出身者と軽爆分科出身者の間の溝の深さに驚いたことがあります。

 戦隊ナンバーワンと、自他ともに認める白井氏が先任飛行隊長になればよかったかもしれないのですが、軽爆転科で戦闘機の経験が浅い小林戦隊長は、自分と同じ軽爆転科の竹田氏を先任飛行隊長に選びました。

 本来、戦闘戦隊では戦闘分科出身が当たり前でしたが、飛行隊指揮官4名中3名までが転科というのは、戦局悪化の結果とは言え、やはり異常事態で、年齢もほぼ同じ同士の人間関係がギクシャクする原因にもなったのではないかと想像します。

 

 なお最後に、昭和20年6月22日に浅野曹長と五百森軍曹が未帰還となった件で、

休暇を終えて知覧基地に戻ったある操縦者は、二人の死を知らされるや激昂して竹田大尉のもとへ押しかけ、激しく食ってかかった

と、私は244戦隊史に書きました。これは、その場に居合わせた信頼の置ける方の証言(実際はもっと生々しい言葉で聞きました)が根拠ですが、竹田氏ご自身は強く否定されていたことを申し添えます。

 

合掌






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