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24年ぶりの返信 16.4.5

 昨秋、一本の電話がかかってきました。相手は、第160振武隊新井利郎少尉の甥御さんでした。
 お話を聞くと、新井利郎少尉の妹にあたる母上が亡くなられて遺品を整理していたところ、古い手紙や日記などがたくさん出てきて、その中に当方が差し上げた手紙があったのだとのこと。
 恥ずかしながら、自分自身、新井さんに手紙を差し上げたことすら記憶になく、またいったいどこでどうして住所を調べたのかも覚えていないのですから、ただただビックリでした。

 平成になって間もない頃、私は手がかりを求めて手当たり次第に手紙を出していました。たぶん数百通にも達したと思いますが、宛名を書いた返信用封筒と切手を同封していても何らかの反応が返ってきたのが一割、具体的成果に結び付いたのが、そのまた半分くらいだったと記憶しています。
 無駄になったと思っていた九割のなかに、新井さんに宛てたものもあったわけですが、実に24年ぶりの返信でした。よくぞ捨てずに保存して下さっていたものと、感激した次第です。

 田中絹代慰問団の記念写真に写っている人物も、当初は誰一人特定できなかったため、カビネ版写真を数十枚以上焼き増しして送付し、皆さんの意見を聞いた結果、ほとんどの人物特定に至ったのですが、この中に新井少尉も写っているのです。

 妹さんの日記によると、少尉が目達原から調布へ転属したのは、昭和20年4月19日のことで、その途中平塚の実家(父は当時、国鉄勤務)に立ち寄ったとのこと。特攻の編成命令は26日なので、写真の時点では、まだ特攻隊ではなかったことになります。


新井光子さんの日記から (括弧内は櫻井記入)

 4月19日朝5時頃、突然電話があり、間もなく兄が帰ってきた。チョコレート、飴(航空糧食)など、もう長い間見たこともないものばかり沢山持って来てくれた。
 兄は今度戦隊附となって帝都の防衛にあたるそうだ。太田さん(太田澄夫少尉=162振武隊)は特攻を志願して明野から調布飛行場へ行き、そこから沖縄作戦に参加するのだそうだ。

 荷物の整理をして「そんなに長く生きてはいないから…」などと言って皆、私にくれてしまう。私の写真や父母の写真も持って行ったらしいので、兄の覚悟がしのばれて寂しくなる。これから死ぬ…というような感じは少しもなく「白い毛糸」の歌を教わった。

 4月29日、兄から手紙が来た。東京都北多摩郡調布町東部第百八部隊竹田隊。

 5月13日、面会に行く。飛行機に乗った兄の姿を初めて見た。すばらしいものだ。17日に特攻隊となって出陣する友があるそうだ。やがて兄も…。そういう時期が来る。

 5月27日、面会に行く予定だったが、空襲で新宿から調布まで京王電車が不通のため、取りやめ。
 昼すぎ、あまり聞かない爆音にビックリして飛び出すと、飛行機が我が家を中心に大きな輪を描いて飛んでいた。母と一緒に国旗を振った。

 飛燕である。兄に違いない。豊島隊長はよい人だそうで、きっと特別に許可を出してくれたのだろう。後から太田さんも兄に間違いないと言っていた。
 でもよかった。あんなに美しい大空、真っ青な空を銀翼を閃かして疾駆したあの兄の姿は、一生涯私の胸から眼から離れないのである。

 6月3日 日曜日快晴 先週行かれなかったので今日こそはと思って、父と母と三人で出かけた。順調に飛行場に着き待つこと一時間、お弁当を食べてしまった。とても今日は面会人が少なくて、外に一人きりいない。兵隊が何時ものように迎えてくれた。

 出口のところで「新井さんはもうここにはいないのですが、荷物がありますから」と言ったのだ。私は、やっぱりそうだったのかと今更ながら胸が苦しくなる。ともすれば涙ばかり出てしまうのをグッとこらえて、兄のいた元の部屋に案内される。

 ドアを開けるのが何だか恐ろしくドキドキしてしまう。ノックをしても勿論、音一つもしない。隣の部屋の同じ特攻隊の勇士が、尺八を吹いているのやハモニカを吹いているのが、また一段と悲しさを誘ってくる。
 部屋の中には何一つもなく、唯、兄たちが机の代わりに使っていた木の箱が二つ、ぽつねんと置き忘れたようにあるのも胸の打たれる思いがしてくる。

 あんなに綺麗なお花が沢山にあった部屋も今は何も無く、綺麗に片付けられた部屋である。「ここでお休みになっていて下さい」と兵卒の人が言って外へ行ってしまった。座敷に上がって三人がぼんやりしていたら、当番長の兵隊さんが来てくれた。そして当番がお茶を持って来てくれた。ミカンの缶詰をお茶請けにして。だけど私は、お茶さえのどに通らない。何も食べる気がしない。

 突然、飛行機の爆音がしたので窓に寄ってみた。あゝこの間はあんなに元気で兄もあの飛行機で思うさま飛び回っていたであろうに。今はその顔さえも見られず尺八の音がまだ聞こえてくる。
(略)
 この部屋で当番長の話を聞いたとき、戦友の羽石さん(羽石泓少尉=161振武隊)という方がまだいらっしゃると聞いたので会わせて頂いた。その方は兄の次の振武隊となって出陣する予定だそうである。
 出発の日は前もって解っていたらしいのだが、兄はとうとう私たちには教えてくれなかったのだ。肉親の者が見送るのは、一種悲壮な気持ちになってしまうので送ってもらわない方がよいと言ってはいたが、残念な気がする。

 5月28日午前8時、この基地を飛び出し、全員無事故で九州の基地へ着陸したのだ。そんなお話を聞き、ちょうど3時頃、兄の外套や長靴など一包みにし、父がかついで再び訪れることのないであろうこの隊とお別れをして、羽石さんに送って頂いて駅へ行く。
 違う部隊の中を通ってある道路に出た。そこでこの方とお別れしてしまったが、この方もこの10日に出陣する予定である。ご武運をくれぐれもお祈りしている。

 飛行場に入って私たち三人はだんだん離れて行ったが、私たちはなかなかここを去る気持ちが出ないで何時までも見送っていたが、羽石さんも何時までもふり返りふり返り遠ざかって行った。帽子を振る姿がかすかな動きにしか見えなくなったが、私は離れる気がせず見送っていた。

 かつては兄の飛行機もこの中の一機であったであろうに。一面に生えている青い小さい草、廻りの山々一木一草に渡るまで私にとっては懐かしく、父にうながされて歩き始めたものの後ろ髪ひかれる思いで泣きながら帰ってきた。

 この飛行場の一隅から、一機また一機と飛び立って行く勇姿が彷彿として目に浮かぶ。かつての日、兄の飛行機に乗った姿を見たのも夢のようで、長い長い大きな夢を見ているようだ。皆、まだまだどこかで会えるような気持ちで、電車に乗り汽車に乗って帰宅した。
 「残念でしたわね」と、しきりに周囲の人が言うのが腹立たしい気持ちだ。父は、「これで尽くすべきことを尽くした感がする」と言っていたが…。

 6月6日、午後1時30分、兄は知覧基地を発進し、遂に敵撃滅の火玉となって散ってしまった。後ほど太田さんや地久一等兵の方々により、このことが明らかにされた。

 最後に基地出発の時、機上で書いた辞世

國のため君のためとて思はずば 雪も蛍も何か集めん


 これを残し永久の生に散ったのである。
 永久の生、悠久の大義に生きる兄。あゝ尊きや兄の姿。
 國のため、君のため、若き清らかな一生を、二十四年の一生を捧げた兄。

第○○振武隊勇士の歌

魁けて嵐に櫻ちりぬとも やがて秋咲く菊もありなん
大空の醜の御楯と征でたつわれは 大和男子の幸をしるなり
爆弾を抱き南の海にわれ行かん 必死必殺一兵余さず
身はたとへ夷
(えびす)の艦に砕くとも護らでやまじ秋津島根を



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