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日橋源一氏逝去 2015.12.23

 日橋源一氏が本年3月、87歳で逝去されました。

 日橋さんは昭和3年生まれの調布っ子で、小学校同級の田村和男さんとともに防衛総司令部飛行班(班長神崎藤一中尉)に軍属として奉職し、主に軍偵の整備に携わりました。


 二人は今で言う飛行機マニアでもあり、自分の職務を越えて飛行機には興味を持ち、キ−87やキ−115初飛行の希有な目撃証人でもありました。


 ものの本には調布にはいなかったとされていたキ−109防空戦闘機(4式重爆の機首に75ミリ高射砲を装備)が、実は調布にも配備されていたことは、お二人の証言で初めて明らかになったのです。二人がこっそり見学に行ったところ、操縦席で見張り番をしていた兵隊に「近づくと軍機保護法で処罰するぞ!」と、怒鳴りつけられたと聞きました。


 少年飛行兵を志していたため、飛行班では受験勉強ができるようにと、接収して倉庫に使っていた布田の新田男爵邸の留守番にまわしてくれ、三度の食事もわざわざ飛行場からトラックで運んでくれたそうです。

 その甲斐あって少年飛行兵には合格し、調布町はじまって以来とも言われた盛大な見送りを受けて第20期生として東校の門をくぐったとたんに終戦となり、軍隊生活は僅か2週間で終わりを迎えました。
 
 戦後は競輪選手としても活躍されました。

合掌




 八日市飛行場 戦後70年の証言 2015.10.9

 『陸軍八日市飛行場: 戦後70年の証言 』を読みました。拙著『飛行第244戦隊史』から多く引用していただいています。大変有り難いことです。

 著者は八日市の郷土史家で、多くの人たちから聞き取りをしています。驚いたのは、小原伝大尉の兄上にもインタビューされていることです。小原大尉は、戦死5日前に突然半田市の家に帰省されたとのこと。

 昭和20年7月25日早朝の戦闘では、敵機と空中衝突という壮烈な最期だったのですが、目撃者によると、実は、敵機との衝突によって絶命したのではなく、落下傘降下中を狙い撃ちされたのが真相だそうです。244戦隊では、2月16日に遠藤軍曹と釘田伍長が、やはり降下中に落下傘を切られて戦死していますが、敵とはいえ無抵抗のパイロットを殺戮する感覚は、日本人には真似ができないのではないでしょうか。

 もっとも、空中衝突の場合は、その瞬間に身体は致死的なGを受けていますから、小原大尉は激突の瞬間に既に絶命しており、落下傘は自動開傘だった可能性が高いとは思います。

 小原大尉の件は多くの目撃証言がありますが、一方、同じ戦闘で没した生田伸中尉に関しては、場所を含めて情報がほとんどないそうです。
 生田中尉の兄上が戦隊の同僚から聞いた話では、畑のわらの堆積に尾輪を引っかけて墜落したとされています。兄上の日記では「非常なる超低空で敵を追撃中…」となっているのですが、通常、攻撃中であれば優位(上位)にあるはずで地面に接触する可能性は低いと思われ、生田機は執拗に追われているうち、何らかの障害物を発見して避けようと急激に機首を引き起こしたために失速に陥ったのが真相ではなかったか…と想像します。

 小原大尉の部下だった斎藤昌武少尉が、終戦直後に書いた所感でも「7月25日、F6Fトノ戦闘特ニ面白カリシ」とあるように、小回りが効かず格闘戦が困難だった3式戦から旋回性能抜群の5式戦になって、戦闘が意の如くできた様子が窺えます。しかし、それが接近戦闘に繋がり、小原、生田両氏の悲劇の誘因になったのだとしたら、何とも皮肉なことではあります。

 この戦闘の米側記録については、田中さんのブログに詳しいですが、5式戦(疾風および飛燕と誤認)の数は15機と認識されています。
 私もかつて、伊沢保穂編『日本陸軍戦闘機隊』は18機、渡辺洋二著『液冷戦闘機飛燕』では30機を越える…と大きく違うので、どちらが正しいのか迷ったのですが、一人一人に当たっていくと、当日、小原大尉の僚機藤井軍曹は知覧ヘ、戦隊長僚機の板垣軍曹は調布へ出張、更にみかづき隊は小林戦隊長と距離を置いていた白井隊長の判断で下士官を編組から外していた。またその他、出撃せず、空戦を地上から眺めていた操縦者もいたことなどが判明したため、30機を越える…はあり得ない数で、10数機と推定しました。それが、敵側の記録によって裏付けられたことになります。

 米側では、日本機の中に2機の銀色飛燕が混ざっていたと認識していますが、これは無塗装の5式戦を誤認したものと考えられます。当時は5式戦の生産が間に合わず、飛行機不足の状態だったため、整備隊幹部が各務ヶ原の工場に乗り込んで、出来たての5式戦を「ぶんどってきた」ほどでしたから、塗装工程を省いて配備された機体があったのだと思われます。

 本書には、八日市飛行場監視隊の文書も引用されていますが、それによると、敗戦後八日市飛行場に放置されていた皇軍機は224機で、うち244戦隊の機数つまり5式戦は計29機とあり、やはり敗戦間際にあっても戦隊が確たる戦力を擁していたことが窺えます。




 調布にヘルダイバー??? 2015.6.5

 
 調布市立図書館のサイトに次のような記載があります。

  2011年(平成23)3月8日、調布飛行場近くの道路工事現場で真っ赤に錆びたプロペラが発見されました。材質は鉄が主成分の合金。 小室克介氏は、米軍の艦上爆撃機ヘルダイバー(SB2C)=愛称がカイツブリの特殊なプロペラだと見立てました。プロペラの中は空洞になっています。
  なぜ、ここに埋もれていたのかは謎です。単に米軍が破棄して埋めたのか。はたまた、近くにあった日本楽器(株)は戦時中に金属製プロペラを製造しており、墜落したヘルダイバー機をその研究のために使った後に埋めたのではとの推測もあります。


  この件は、つい最近まで知りませんでしたが、検索すると2011年の「調布飛行場祭り」で展示された画像が複数見つかりました。

 ヘルダイバーは、昭和20年2月16、17両日、調布飛行場を爆撃に来ているので縁がないわけではないのですが、墜落はしていないので、調布にプロペラがあったとしたら正に謎としか言いようがありません。


 おそらく、当該プロペラが鋼製、中空というカーチス社製プロペラの特徴を備えていることから、ヘルダイバーのものという結論が導き出されたのではないかと想像しますが、調布飛行場と艦載機のプロペラを結びつけるのは無理があるのではないでしょうか。 

  さて、占領直後に調布飛行場で運用(常駐)された米軍機は、B‐17、B‐24、B‐25、C‐46、C‐47、A‐20、A‐26、 P‐38、P‐47、P‐51、T‐6、L‐5等と思われます。このほかF4Uが飛来していますし、艦載のヘルダイバーも降りた可能性はありますが、調 布では支援態勢がないので、長居はしていないはずです。

  ヘルダイバーは艦載機なので、皇軍が無傷で鹵獲した可能性は低いですし、POW研究会によると本土に空襲に来て墜落した同機は計20数機あるものの、墜落ではプロペラは原形を留めないのが普通ですから、こちらも同様だと思われます。

 艦載機と書きましたが、ヘルダイバーのごく一部は陸軍航空隊で、戦闘用ではなく陸上の雑用機としても使用されたそうですが、占領直後の日本での運用は可能性として低いと思います。

  プロペラが残っているということは、調布で廃棄処分となった機体のプロペラだけが残ったと考えるのが自然でしょう。つまり、海軍機ではなく、調布に進駐した陸軍機である蓋然性が高いと考えます。

 当方は米軍機の、それもプロペラの詳細なデータなど持っていませんが、前記陸軍機の中でカーチス社製プロペラを装備していたのは、C‐46とP‐47の2機種と思われます。が、C
46はサイズ的に違うでしょうから、残るはP‐47ということになります。

  想像すると、当該のP‐47は入間川へは移駐せずに調布でリタイアし、昭和22年夏頃に役目を終えた他の仲間たちと共に解体搬出されたが、 プロペラだけは草に紛れて見落とされ残ってしまった。その後、調布水耕農場土壌部の開設によって飛行場の草地部分が開墾されて畑に変わった際、邪魔なので 土中に埋められた…ということかと推察します。

  調布飛行場用地では、3〜4年前、現第7機動隊施設建設前の発掘で、B‐25用ではないかと思われる爆弾倉懸吊タイプの増槽が発掘されていますが、これも同様の経緯で埋められたものかもしれません。

 なお、調布飛行場に近い日本楽器東京製作所(現サレジオ修道院)は、確かにプロペラを製造していて研究もしていたでしょうが、近いとはいえ、わざわざ飛行場に運んできて、それを埋めるとは考えられません。

■ 調布飛行場北東端にあった廃機集積場へ
写真出典 サンディエゴ航空宇宙博物館デジタルアーカイブ


 ↑ 昭和20年秋、調布飛行場大格前エプロンのP­−47。左後方が第1総軍司令部飛行班(旧防衛総司令部飛行班)。


↑ 同じくP−51。後ろにT6とP47の尾部が見える。

■ 
調布飛行場大格前エプロンに駐機するB−17
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