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 加藤(板垣)政雄さんを偲んで

 震天制空隊員として二度のB29体当り撃墜、そして生還という超人的活躍による陸軍武功徽章に輝く加藤(旧姓板垣)政雄さんが、本年6月逝去されました。享年89歳。憧れの244戦隊が、また遠い遠いところへ行ってしまいました。

 私が初めてお会いしたのは平成3年、小林戦隊長の墓参にご案内したときでした。
 前年、私は悩んだ末に戦隊史調査を決意したものの、余りに情報が少なく、手がかりを求めて航空戦記を片っ端からめくった結果、加藤さんの出身地らしき地名を見つけ、届かないかもしれないが、ものは試しと手紙を出してみたところ、すぐに返信があり、三谷整備隊長や本部の生き字引と言われていた松岡さんが拙宅の近くにお住まいだと教えて下さったのが、全ての始まりでした。

 初対面のとき、
調布町の人たちには本当にお世話になりました。戦隊を代表してお礼を申します」と言われたのには全く恐縮しました。戦時の調布町は、それほどまでに108部隊を支援していたのですが、今日、何人の人がそれを知っているでしょうか。

 拙宅にも二度お出で下さいました。加藤さんは当時、三味線を習っておられたのですが、私の母が長唄の名取だったもので、三味線の上達法について熱心に尋ねられていた姿が目に浮かびます。

 加藤さんは、その純真で素直な人柄から皆に愛されていましたが、特に特操連中とは馬が合い、階級を越えて親しく付き合って、彼らの下宿先にも遊びに行ったそうです。
 「戦隊長が、私ら下士官如きと友だち付き合いをしてくれた。こんな戦隊は絶対に他にない」と、加藤さんは本当に楽しげに、昨日のことのように戦隊の色々な話をして下さいました。加藤さんの証言がなければ、戦隊史そのものが成立し得なかったと思います。

 最後の戦隊会だったか、「戦後、遊覧飛行のセスナに乗ったときは、揺れて恐ろしかった」と言われたのにはビックリしましたが、3式戦は、どっしりと安定していて、不安は全く感じなかったそうです。「3式は、いい飛行機だったよ!」とも仰いました。
 きっと、加藤さんは永遠に、愛機飛燕を駆ってこの大空を飛び回ることでしょう。
 長い間、本当に有り難うございました。

合掌 



 証言・調布の戦史 2013.3.30

 調布市戦時記録保存会を主催されている岩崎清吾さんが、空襲の記憶を将来に残そうと「証言・調布の戦史」を自費出版されました。岩崎さんは終戦時中学1年生で、5月25日の夜間空襲も体験されています。

 私が特に価値を感じたのは、二点。昭和20年2月16日の防空情報放送の詳細なメモと、古波津里英少尉が体当り撃墜したB29搭乗員の殺害事件を否定している点です。

 まず、放送内容のメモは、岩崎さんの中学の先輩である岡田敬造さんが、ラジオを聴きながら書かれたもので、空襲警報の最中、少年が冷静に書き取りをしていたことに、驚きを禁じ得ません。

 メモを見ると、同日1500前後の太田付近は敵艦載機群で埋め尽くされていた感がありますが、ここを244戦隊の一部と47戦隊桜隊が邀撃して、我が方計4機が撃墜されました。

 想像ですが、我が戦闘隊は、銚子付近から侵入して渡良瀬川を道しるべに低空で中島太田を狙う爆撃機 (日本側ではSB2Cと認識していたが、実際はTBMアベンジャー)の後上方に占位したところが、その遙か上を直掩していたF6Fに喰われたのではないか…と思います。

 この頃、足利市ではアベンジャー1機が墜落していますが、これは、中島太田の爆撃を終えて東へ脱去しようとするところを高射砲に撃墜されたもので、戦闘機の戦果ではありません。

 敵側記録による当日のF6Fの損失は計19機ですが、群馬、栃木方面での損失はゼロで、我が方は戦力、状況ともに不利な下で一方的にやられてしまったものと考えられます。

 鈴木正一伍長慰霊碑の守護を親子二代にわたって続けられている宮原さんによると、戦闘は佐野市付近で発生し、鈴木伍長機が現足利市西場町に墜落したのは1453頃、敵編隊の足利市中心部通過が1457頃で、メモの1500部分と符合しています。

 対空監視哨から直通電話で東部軍司令部作戦室に送られた状況を参謀が判断して、直ちに作戦室に待機のアナウンサーが読み上げていたものと思いますが、ほぼリアルタイムといってよいほどの情報伝達の早さには感心しました。

 次に、終戦後の調布町に暗い影を落としていた昭和20年4月7日、国領におけるB29搭乗員の殺害事件ですが、本書では、第一発見者からの聞き取りや「犯人」とされた人物の尋問記録などから、当該搭乗員は着地時点で既に死亡していた思われ、殺害説は、当時病弱のために兵役免除となっていた自警団員の法螺話に尾ひれが付いて広まったものと推定しています。当時のムードから、「あってもおかしくない」と、誰もが納得してしまったのかもしれません。
 


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写真の少女は、5月25日の夜間空襲で亡くなった竹内喜久枝さん(上)と4月7日にB29の機体が落ちた防空壕内で亡くなった河栗和子さん

昭和20年2月16日(金)の防空情報放送メモの一部 (証言・調布の戦史より)

1330 ( 1237に発令された空襲警報は、1327に一旦解除されている
  関東地区内二敵小型機数機有リ
1340
  関東北東部二侵入セル小型機10数機ヨリ成ル一編隊有リ
1350
  先二関東北東部二侵入セル敵ノ一編隊ハ東方二トン走セリ
1423
  敵小型50機関東東部二侵入セリ
1426
  関東東部二侵入セル編隊ハ西北進シツツアリ、ナホ小型30機関東東部二侵入セリ
1429
  関東東部二侵入セル敵二ヶ編隊ハ目下房総北部ニアリ
1435
  房総北部二有リシ敵ハ関東東北部二向ヒツツアリ
1451
  目下敵ノニヶ編隊ハ関東北東部ヲ旋回中ナリ
1455
  新タナル敵四十機ハ関東東部ヨリ侵入シ房総北部二有リ
1458
  関東北東部ヲ旋回中ノ敵ハ西南進中ナリ
  空襲警報発令
1500
  敵ハ目下関東北部・北東部二有リ、我制空部隊ハ之卜交戦中ナリ
1502
  関東北東部二有リシ敵編隊ハ西進シ関東北部ニアリ
1507
  関東北部二侵入セル敵編隊ハ我制空部隊ガ邀撃中ナリ
1511
  新タナル敵30機ハ鹿島灘ヨリ西進中ナリ、末ダ京浜地区二敵機ヲ見トメズ
1520
  新タナル敵一編隊ハ伊豆半島北部ヨリ京浜西南方二侵入セリ
1523
  関東北部ニアリシ敵二ヶ編隊ハ東方二トン走セリ
1525
  伊豆北部ヨリ東進中ノ敵ハ京浜西南方二於テ我制空部隊卜交戦中ナリ
1534
  敵小型一編隊伊豆南部二侵入セリ
1535
  京浜西南方二於イテ我レト交戦中ナリシ敵ハ南方海上二トン走セリ、目下ノ所帝都上空二敵機ヲ見トメズ



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