振武隊異動通報から見えた真実 15.8.14



 林えいだい著「陸軍特攻振武寮」には

 4月5日、知覧から喜界へ前進後 《着陸直後、水川中尉機はグラマンの攻撃を受けて乗機を破壊されてしまった。たまたま不時着した第78振武隊の田宮治隆少尉に「部下だけを死なすわけにはいかない。俺も一緒に行かせてくれ!」と強引に頼んで、特攻機に二人で同乗して出撃したとある。

 この記述自体はおそらく他の出版物からの受け売りで、時期も事実とは2ヶ月近くずれているが、著者が異動通報を読んでいない証拠とも言える。意図的か否かは分からないが、倉沢清忠氏は、編成表よりも重要な記録文書である異動通報を林氏には貸さなかったのであろう。

 また、生田惇著「陸軍航空特別攻撃隊史」は、
第21振武隊長であった水川中尉は飛行機を破壊され、喜界島で再出撃の機を待っていた。同地に不時着した田宮少尉の機を譲り受けて出撃しようとしたが、田宮少尉がそれに同意せず、ついに両名同乗して特攻を敢行したのである
としているが、これらは何れも事実に反している。

 6月12日調 振武隊異動通報第一號「事故者の部」には、田宮少尉について、
5/25 喜界島ニ不時着。26日帰還ノタメ 21水川中尉操縦同乗出発、行方不明
とあり、出撃とは記載されていない。知覧ヘ戻ろうとした際の事故だったのである

 これを裏付けるのが、喜界島で二人を見送った第43振武隊長今井光少尉の回想である。(陸士57期航空誌)
また5月10日前後の頃(=正しくは25日)、二人乗りの98偵と97戦が着陸した。両名とも夜間飛行はできないとのことで、私と21振武隊長の水川中尉の二人でこの2機を内地に送還するよう命ぜられた。2機で地上滑走中、突然、水川機(98直協偵)のエンジンが停止した(滑油コック入れ忘れ)。

 彼は私の97戦に登り、「貴様は一人だが、俺はまだ5名も残っている。一日も早く内地に帰って飛行機の手配をしなければならない。頼むから譲ってくれ」と懇願されたので、やむなく97戦をお譲りした。当時、喜界ヶ島は梅雨の最中で、水川さんは離陸して夜の雲間に吸い込まれるように飛んで行ったが、未帰還となってしまったと後で判明した。
 彼よりも技量未熟の私ではなおのこと成功したとは思われず、今となってはご冥福をお祈りするばかりである

 この辺りの動きは、南西諸島海軍航空隊喜界島派遣隊戦時日誌からも確認できる。

25日  
0842 九七戦1機着陸

0845 直協機1機着陸
1925 靖国(=4式重爆)1機着陸
1950 同機出発(熊本)
 
26日
0354 九七戦1機出発 (燃料)九七戦×1
 

  もしも前出2冊の記述が真実であるなら、水川禎輔中尉は、自身の指揮下にない他隊の田宮少尉までも巻き込んで、事実上の自決飛行に出発したことになるのだが、大貫健一郎少尉は知覧出発前の水川中尉の訓示をこう書いている。(特操1期生史)

頼りないエンジンだが喜界まで340キロなんとか一緒にゆこう。不調の場合躊躇せず戻り、洋上故障のさい屋久島に続きトカラ列島の島々に不時着し無駄死にせぬこと。航法図を囲み指示され、また増槽が減ると爆弾の重みで右へ傾き操縦しずらくなる。敵機に遭遇したら身軽になり海上超低空で何とか振り切るよう等とこまごま注意され、所期の目的達成達成のため熱意を吐露されたと。

 大貫少尉は本来、水川中尉の部下ではないが、飛行機のやりくりがつかない知覧基地の事情から、水川中尉を長機とする臨時の編組で発進したのである。
 この訓示からも、水川中尉の合理的なものの考えが窺われ、前2冊のような、感情的にただ「死」を目的とするかのような行動をとるとは思えない。

 なお、今井少尉は倉沢少佐の航士時代の教え子だといい、林氏の著書には、所謂「振武寮」で竹刀で殴られたりピストルを手渡されて自決を迫られた等、倉沢少佐にさんざん苛められたとあるのだが、あるいはその遠因とも思われる出来事が今井手記には書かれている。
 
 (43振武隊は4月1日午後、9機編隊で出発し15時頃、知覧に全機着陸した。その直後、目前に少佐参謀と藤山二典(56期22振武隊長)と水川禎輔(56期21振武隊長)の両中尉が待ち構えており、全機を両隊に引き渡せという。「」と返答すると、参謀がその場で書き上げた命令を読み上げられて、泣く泣く全機を引き渡した

 当時、知覧基地では整備不良による飛行機不足が深刻で、作戦計画に支障を来していた。そのため、先着隊は後続隊が乗ってきた飛行機を融通してもらって出撃していく状態であった。そのような状況下で今井少尉が引き渡しを拒んだ出来事が、あるいはその後の確執の端緒になったとも考えられる。また、今井少尉は明野教導飛行師団都城分遣隊時代、ただ一人特攻志願を拒否したエピソードの主でもあった。

 今井少尉は「振武寮」でのことを約1ヶ月間の飼い殺し生活としか書いていないが、6月10日の定時進級で他の同期生らと共に中尉となり、13日付で原所属である明野教導飛行師団へ転属となった。(振武隊異動通報第二號、6月18日現在

 因みに、水川中尉の部下で、喜界島から大貫少尉らと共に帰還して「振武寮」に宿泊した上田克彦少尉は、「振武寮ではひどい目にはあっていない」と語っていたという。(語り部 陸軍航空特攻)

=実際は2週間



 振武隊異動通報第一號から分かることがもう一つある。


 数年前のこと、兵庫県三木市の郷土史家の方から、ある情報がもたらされた。三木市は第213振武隊が訓練をした土地であり、しかも同隊の隊長だった小林信昭氏が長年、同市の中学校長を務められた縁もあり、三木飛行場から出た特攻隊には高い関心が寄せられているようであった。

 情報とは、知覧特攻平和会館初代館長板津(旧姓小椋)忠正氏が語っている徳之島不時着体験は虚偽なのではないか…というものであった。思ってもいなかったことだったが、振武隊編成表と異動通報を改めて読んでみると、小椋忠正の名は編成表にあるだけで、出撃後の各隊員の消息を詳細に記録した唯一の文書である異動通報には、全く見当たらないことが分かった。つまり、小椋伍長は出撃していなかったのである

 
 以下は特操一期生史に収録された元隊長小林信昭氏の手記から

5月24日加古川飛行場で出陣式が行われ(中略)部隊の日の丸の旗の波に送られ編隊離陸をして加古川飛行場上空に舞上がり、12機(213、214振武2隊の合計)が編隊を組んで九州の菊池飛行場へ向かった。途中大分海岸に発動機故障により不時着した1機と菊池飛行場で着陸に失敗した1機の合計2機を失った=何れが小椋で日向かは不明)が人員は無事であったのが不幸中の幸いであった。

 直ちに点検整備にかかったが沖縄までの飛行可能と判断されたのはたった4機であったし、その4機も500sの懸吊架であったので250sのものに交換する必要があると指摘された。250sしか積めぬ飛行機に500sの懸吊架とは随分いい加減なことをすると思った。
 特攻基地の知覧に着いて後続の隊機を待ったが全機揃わず、第11次の総攻撃には私の他3機=松下、蘆田、佐藤)の合計4機のみ参加出撃することとなった。
(中略)

 5月28日の運命の日が来た。朝5時頃だったか婦人会らしい女の人たちが見送りに来ていたので持ち物全部記念にあげてしまった。隼や4式戦、97戦他ごちゃごちゃの飛行機が並んでいた飛行場を一番最後に飛び立った。遠く場外に見えた松林がみるみる大きくなって衝突するかと思う時、やっとフラフラと舞い上がった時はヤレヤレと思ったが、その瞬間に猛烈な孤独感におそわれた。空に見えるのは我々4機のみであった。洋上を高度700メートルで飛行を続けて行った。(後略)

 板津氏は「出撃後」の経過についてかなり詳細に記して(あるいは語って)いるのだが、そもそも前提となる出撃の事実がないのだから徳之島への不時着もあり得ず、これらは作り話と判断せざるを得ない。よって内容を検証しても意味がないと思われるが、5月28日出撃後、奄美大島に不時着して6月19日、福岡に帰還した(おそらく海軍水偵によって佐世保へ)同僚佐藤壮子次伍長のエピソードをアレンジしているように感じられる。

 教員退職後、知覧を再訪した小林信昭氏は、知覧で元部下(板津氏)を見かけたが、敢えて声をかけずに場を離れた…と語っていたそうである。

 

振武隊異動通報第一號の画像(表面) 213振武隊は最上段中央の4名。水川、田宮両者の記述は下段左

同じく裏面

同じくテキスト版

213振武隊編成表の画像



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