倉敷飛行機会社調布工場
(旧東京飛行機製作所)




 この前身である東京飛行機製作所は、立川飛行機製作所の系列会社であり、元々羽田飛行場で航空機整備業を営んでいた。調布工場は昭和16年、調布飛行場開場と共に三鷹村大沢の隣接地に水田を埋め立てて造られ、2千人の工員を擁して、「赤トンボ」と呼ばれた95式3型練習機を製造していた。ただし、木製機を製造していた「東京航空」は別会社である。

 東京飛行機は、後に倉敷紡績傘下に入って「倉敷飛行機株式会社」と改称された。そして昭和20年4月、中島飛行機を主体とする第1軍需工廠創設に伴い、同廠に吸収されたが、実質的には、直近の中島飛行機三鷹研究所の分工場という位置づけだった。

 大東亜戦争末期には頻繁に空襲に見舞われたため、調布工場は工員と共に群馬方面に疎開し、工場施設は空き屋同然の状態で敗戦を迎えた。

 昭和20年9月4日、占領軍部隊の進駐を受けて工場施設は同月下旬、接収され、主に水耕農場の倉庫として使用された。昭和36年頃には用地の半分が返還され、航空宇宙技術研究所(現JAXA)飛行場分室となった。
 
   

 スレート葺きの巨大な格納庫。東京飛行機時代には屋根に「東京飛行機製作所」の文字が大きく書かれていた。

  戦争末期には、第1総軍司令部や第1航空軍司令部のシュトルヒ(3式指揮連絡機)が収容されていたようである。

  米陸軍時代の昭和20年代後半〜30年代前半、このエプロンにはH−13、H−19等のヘリコプター群がひしめいていた。

 戦後約30年経っても戦時の迷彩塗装がはっきり分かる。
 
  米軍時代には西武鉄道からの引き込み線路が屋内まで敷設され、調布水耕農場の倉庫または出荷場として、その後はヘリコプター格納庫として使用された。

 






かつては敷地内に、このような様式の建物が並んでいた。




野川の畔にあった調布工場の通用門。




 調布工場裏門の門柱。敷地は、このコンクリート塀で囲まれ、道路を隔てた反対側に憲兵隊の 分署があった。
 調布工場には、刑務所の受刑者も動員されていたという。
09.10.24追加




通用門を入ったところにあった建物。事務棟?。




調布工場変電室




昭和37年、野川の畔から見た倉敷飛行機調布工場。




倉敷飛行機格納庫の内部。床には線路が敷かれていた。後方はN62の残骸。




格納庫廃墟をバックに、FA200とビーチ65。09.10.24追加



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