大格の思い出 05.3.13

ハ40からつづく)

 前述のエンジン換装を担当していたのが、大格に配置されていた244戦隊整備指揮小隊である。指揮小隊の任務は、この他に墜落の原因調査や戦闘整備の範疇を越える中整備、ならびに標的曳航用軍偵の整備などで、他部隊や海軍機など外来機の面倒も見ていた。
 なお、小林戦隊長時代に新設され、戦隊長編隊と震天制空隊機の整備を担当した整備隊本部小隊とこの整備指揮小隊とは、別の部署である。

 整備指揮小隊は整備隊長の直轄であったので、指揮官は整備隊長ということになるのだが、実務を取り仕切っていたのはベテランの中山徳二准尉で、その下に田畑正己曹長がいた。中山准尉は温厚な人で「大格の親分」という風格だったし、芸達者で中隊対抗演芸会のスターだった田畑曹長は、兵隊を教育するとき、黒板に漫画を描きながら面白く説明してくれた。

 演芸会といえば、会場は専ら大格だった。度々行われた慰問のときも、大格内に尻と尻をぴったり繋げたトラックを並べ、即席の舞台が造られた。
 戦隊が知覧へ移動する直前に挙行された、トップスター田中絹代をはじめとする松竹映画一行の慰問興行は、その美しさ、華やかさで、今も語り草となっている。
 因みに、この興行は神代村
じんだいむら=現調布市佐須町の第13航空通信連隊人事係曹長であった俳優佐野周二が、244戦隊本部を訪れた際に斡旋を申し出て実現したものだといわれる13航通、高射砲隊などとは、隣接部隊として頻繁な交流があった


 大格内の一隅には、整備器材や特殊工具などを貸し出す器材庫が設けられていた。ここは飛行場のオアシスとも言うべき柔らかい雰囲気のところで、工具を借りに行くと、入営前はムーランルージュでピアノ弾きだったという噂の受付係に「いらっしゃーい」と迎えられて、帰るときには、「早く返してよォ」と送り出された。
 この受付係を他小隊の伍長が、「兵隊のくせにナヨナヨしやがって!」と気合を入れてしまったところが、後日、指揮小隊の古参兵たちに呼び出され、逆に半殺しの目にあわされたそうだ。

 指揮小隊には古参兵が多かったが、川崎航空機から技術指導のために派遣されている工員や、入営前、大学で航空エンジンの研究開発に従事していたという本格派もおり、高い技術力を誇っていた。
 大格の裏には長屋形式のバラックが2棟並んでおり、ここは武装・電機・無線・計器・板金各分隊の作業場になっていた。また、これらの分隊は、大格の東隣にあった木造の「小格」も使用していた。

 大格は当初、灰色に塗られていただけで迷彩はされていなかった。しかし18年春頃、滑走路やエプロン、道路など全てのコンクリート舗装面に斑や幾何学模様の迷彩塗装が施されたのにあわせて、大格にも太い縞模様の迷彩が施された。これら大がかりな迷彩塗装の実施は大変な作業だった…と、筆者は三谷氏(元整備隊長)から聞いたことがある。東隣に木造の小格が建てられたのも、この頃である。
 しかし、まだのんびりしたもので、現実の空襲など想定外だった。大格横の野戦作戦室(戦闘指揮所)は無防備なテント張りでしかなく、防空壕などの地下施設は皆無だった。ある隊員が面会に来た家族に、「空襲が来たら、いったいどうするんだ」と問われ、答えに窮したという。

 19年夏頃になると、B29による北九州爆撃の戦訓などから、大本営の指示によって、ようやく空襲対策が本格化した。各施設の飛行場外への分散疎開と地下施設の建設が進められるようになり、作戦室もテントからコンクリート造半地下の建物となった。飛行場内には大格の屋上をはじめ、あらゆる場所に応急の対空陣地が造られ、事故機から外したマウザー砲までが対空火器に転用されて空を睨んでいた。見かけだけは「鉄桶
(てっとう)の陣」であった。

 まさに飛行場のシンボルだった大格だが、哀れな姿となったのは20年5月25日のこと。この日深夜、帝都の西半分を火の海と化した焼夷弾攻撃は調布飛行場にもおよんだ。これにより、飛行場施設の大半が炎上してしまい、大格も鉄骨だけの哀れな姿となって終戦を迎えたのである。


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