ハ40 04.4.30

 言うまでもないことなのだが、飛行機およびその部品の信頼性を端的に表し、点検整備全ての基本となる甚だ重要な物差しが、オーバーホール(分解手入)時間である。

 皇軍機について「故障が多く可動率が低かった」とは、どの出版物にも書かれていることだが、これら出版物の多くは何故か設計者側から見た開発エピソード偏重の内容が多く、運用の現場とは無縁の技術的に高尚な話が詳しく書かれている反面、ユーザーにとって必要不可欠なオーバーホール時間に言及したものは見かけない。これは、実に不思議なことだ。

 また一般に、整備隊員の労苦を強調した記述を見ることがあるが、筆者が知る限り、作業そのものが苦であったという話は聞いたことがない。それより、彼らにとっては、常にひもじい思いをしていることこそが大問題だった。空襲で兵舎を失うことよりも、物品販売所(酒保のこと)の焼け跡に転がる焦げたアンパンの方が、彼らにはよほど心残りだったそうだ。

 244戦隊が97戦から3式戦に機種改変したのは18年夏のことだが、当初は3式戦のエンジン「ハ40」に不具合が多発して運用は困難を極めた。あまりの事故の多さに、藤田戦隊長は「俺はもう嫌だ」と呟き、神官を呼んでお祓いをしたところ、その翌日にはもう死亡事故が発生するという始末だった。

 当時、調布飛行場南地区と西地区に分散配置されていた独飛47中隊整備班の刈谷正意少尉は、第17飛行団の将校集会所(調布飛行場東側松林内)で飛行団長佐藤正一少将に声をかけられた。
戦隊では、ロクイチに手こずっているようだから、刈谷が見てやれ」
「私は二単
(にたん)が専門でロクイチは詳しくないので…」
 と、刈谷少尉はこれを断り、審査部にいた少飛同期の坂井雅夫准尉を紹介したそうだが、3式戦運用の不如意は、飛行団長にとっても頭痛の種だったのだろう。

 潤滑油さえ切らさなければ文句をいわずに回ってくれたことから「百姓エンジン」と呼ばれた97戦搭載のハ1に対して、ハ40は信頼性が極めて低く、当初規定されていたオーバーホール時間は、隊員の記憶によれば僅か
80〜100時間(試運転時間を含めるか否かで差があると思われる)でしかなく、これはメーカーの不安の表れでもあったのだろう。
 特に、長いクランクシャフトには材質上の問題があり、初代整備隊長茂呂豊氏は、
「新造ハ40のクランクシャフトが、
80時間ちょうどで折れたことがあり、信じられなかった」
と語っている。実績のない新しいものほど危なかったという。

 一般にオーバーホール時間は、当初は安全を見込んで短く設定されるが、運用の実績とともに延長されていくもので、最終的には当初時間の倍以上に達することは珍しくない。だが如何せん、80〜100時間という短さでは、実施部隊における運用は甚だ厳しい。そこで、オーバーホール時間の速やかな延長が至上命題となり、244戦隊でも延長に努めていたのである。

 戦隊では、従来、過剰整備による不具合の発生が経験されていたことから、「調子のよいものは、なるべくいじらない」という方針と、徹底した飛行後点検実施等の施策により、小林時代には平均
200時間程度での運用が可能となり、20年1〜2月当時には、推定80パーセントという高可動率を実現した。そして20年3月頃には、そのうちの1機が遂に300時間を達成して、三谷整備隊長が航空本部から表彰を受けている。

 ただ、ここで注意すべきことは、「可動」の意味合いである。これはあくまで、離陸(飛行)可能という程度のことであり、今日の、離陸から着陸までの全過程、更には将来にまでわたる「絶対的安全」を要求する考えとは、全く違う。
 整備隊のある幹部は、
「判断に迷うときは、とにかく飛ばしてしまえと指示していた。実際、上空へ上がると調子がよくなることが多かった」と語っている。

 3式戦については、水漏れ、油漏れが甚だしかったと、常識の如く書かれている。それは事実(但し、三谷氏によれば、水漏れは比較的少なかった)だが、これらの不具合が運用上、特に障害になったという話は、聞かない。
 これは何より、漏れは時間とともにジワジワやってくるもので、致命的故障ではなかったからだろう。飛行中に発生したとしても即墜落に至るわけではなく、通常、長距離の洋上飛行などしない内地戦隊では、なおさらである。
 漏れはラジエーター部からの発生が多く、その場合、漏れた箇所の管をペンチで潰し、流れを止めてしまう。そして、潰した箇所が規定数にまで達すると、パーツ全体を交換した。

 整備隊員が最も怖れたのは、燃料噴射ポンプや過給器などの不具合だった。これは何の前触れもなく、突然にエンジンの停止を招くからだ。特に離陸上昇中の発生が顕著だったので、愛機を見送る機付兵は、当該機が3式戦特有の黒煙を曳いて離陸した後、高度をとって第1旋回を終えるまでは、祈るような思いで機影を凝視していた。

 武装や主脚などの作動油圧系は、19年初秋頃の高々度邀撃演習時には、高空の低温に起因した油の高粘性による不具合が多く、脚が降りないための胴体着陸なども続発した。が、これには対策が実施されたらしく、機関工手・武装工手各々の記憶でも、19年晩秋以降の実際の高々度邀撃に際しては、顕著な不具合は発生しなかった。

 様々な問題はあったものの、整備隊員の3式戦に対する愛着は他機種の比ではない。ある隊員は、
「調子のよいときの3式は、本当の金属音というのか、実にいい音をさせて飛んだよなー」と懐かしんでいる。

 オーバーホールを受けるために取り降ろされたエンジンは、当初は西武鉄道北多磨駅から貨車に積まれて鉄路、川崎航空機まで運ばれていたが、後には立川航空廠に運ぶようになり、完成すれば戦隊からトラックで取りに行っていたようである。
 整備完了したエンジンが、どれほどの期間で戻ってきたものか隊員の記憶は明確でないが、どんなに早くとも1週間以上は要したであろう、ということだ。戻ってきたエンジンは直ちに梱包が解かれ、約半日で機体に装着、試運転まで実施できたという。


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