転把回し 01.10.20/02.12.6

 大東亜戦争時、陸軍で3式戦以外の戦闘機は皆、スピナーの先端に爪が付いており、始動車でクランクできるようになっていた。しかし、始動車の定数は1個中隊あたり2台と少なく、また、連結角度が悪いとクランクの際にスピナーに傷を付けてしまうことも珍しくはなかったので、機体に装備されている慣性始動機を使って始動することが多かった。

 三谷整備隊長は、244戦隊が慣性始動機のない97戦から3式戦に機種改変して、「楽になったのは始動だけだった」と語っている。命令一下、一刻を争って出動しなければならない防空戦隊では、準備線で飛行機と始動車と整備兵とが錯綜して非常に危険な状態となるからである。

 3式戦のエンジン「ハ40」は元々精緻な構造を持った倒立V型12気筒で、外部から強い振動を与えることは厳禁とされた。このため、始動も衝撃と振動の少ない慣性始動だけに限定されており、スピナーの爪も付いていなかった。
 それでも、エンジンとの間のクラッチが繋がるときの衝撃はかなりのもので、始動機はよく壊れて頻繁に交換された。これは、始動機に欠陥があった訳ではなく、不具合の原因が仮にエンジン側であっても、貴重なエンジンには絶対に損傷を与えないよう、もともと始動機側を脆弱に造ってあったからだと聞いた。

 始動機のハンドルを「転把
(てんぱ)」と言い、「転把回し」は機付兵の重要な仕事だった。始動機のフライホイールは転把の回転よりも200倍に増速されて回るため、回し始めは極端に重いのだが、1人でも回すことができた。昭和20年春頃に撮影された「乙女のいる基地 注1」という松竹映画には、動員の女学生が1人で99式軍偵の転把を回すシーンがあるし、戦争末期には、どこの飛行場でも飛行機を広範囲に分散秘匿していたために整備兵の手が足りず、操縦者自身が転把を回して始動におよぶことも珍しくはなかった。

 しかし、当時の写真やニュース映画などを見ると必ず2〜3人がかりで回している。これは、時間短縮のためだともいうが、プロペラの直近という危険な場所での作業故に複数で実施するよう、規則で決まっていたのではなかろうか。私自身も航空整備学生だった時代に、「止まっているプロペラでもむやみに近づくな触るな
注2」と、口やかましく指導された覚えがあるが、プロペラの傍では、ちょっとよろけただけでも命を落とす可能性が高いのである。

 さて始動の実際は、下に沈んだ潤滑油を分散させるためにプロペラを数回手回しし、ポンプで気筒に燃料を注入の後、転把を回す。転把の回転が毎分100回転(したがってフライホイールは毎分2万回転)に達したところで、「点火!」と発声しながらエンジン後方右側にあるボタンを押してクラッチを繋ぐ。潤滑を促すためにプロペラを空転させてから、やや遅れて計器板の点火スイッチを「両」とすれば、1100馬力のハ40が唸りを上げて回りだすはずなのだが…。

注1 銚子市の大胡氏からの情報によれば、この映画のロケ地は、下志津飛行学校銚子分校であるとのこと。02.12.6
注2 点火スイッチが切られても停止直後の気筒内に赤熱点があると、残った混合気に引火してペラが空転することがある。また、もし点火スイッチがオンの状態でプロペラを動かすと、連動する磁石発電機が高圧電気を発して点火栓に火花を飛ばしてしまうので、同様の可能性がある。

転把回しに関連して、これは何? 2002.2.3


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