あわや同士討ち 09.6.19/19.6.24


 知覧から徳之島まで特攻直掩で飛んだ帰り道、4〜500メートル上空を海軍機の編隊が対向して飛んでいるのが見えていた。それをやり過ごしたあと、突然、後上方から「敵機」が被ってきた。

 不意だったから慌てたが、脇をすり抜けた機影を見たら、なんと日の丸が付いている。
なんだ、さっきの海軍機じゃないか!
 海軍機は、見慣れぬ5式戦を敵機と誤認したらしい。しかし、友軍と気付いて直前で射撃は回避した。

 先頭を飛ぶ戦隊長も海軍機を視認しているのだろうと思っていたのだが、不意打ちに慌てた戦隊長が、いきなり落下タンクを落として航進隊形のまま、右に左にグァーン、グァーンと蛇行して回避運動を始めてしまった。

 航進隊形のままでは各機の自由な機動ができないから、編隊長は、まず翼を振って戦闘隊形(各機間を70〜80メートル離す)を命ぜねばならない。しかし、いきなりタンクを落としたので、皆も慌てて従った。が、慌てたために燃料コックの切り替えを怠り、ガス欠でエンストしそうになる飛行機も出るなど、一時は大混乱になった。

 なってなかった。これでは戦闘はできない。やはり転科だから、戦闘の何たるか、基本が身に付いていなかったのではないだろうか。
 もしもこれが本物の敵機だったら、戦隊は全滅していた可能性さえある。

 その後、知覧に近づいたところ、「みかづき」だけは他隊を先に降ろして枕崎の海上で突如、戦闘隊形をとった。「また被られたか!」と思ったらそうではなく、教練だった。
 あれは、白井隊長が範を示そうとしたのかも知れない。
 降りてから白井隊長が、烈火の如く怒っていた様子が印象に残る。「いったい、あのザマはなんだ!」と。


 244戦隊軍医日誌によれば、これは昭和20年5月25日午前の出来事である。

 特攻直掩に際して244戦隊では、徳之島までの往路は会敵を想定して、戦闘隊形と重層配置を常とした。低空を飛ぶ特攻機と最上層の直掩編隊とでは2000メートルほどの高度差があり、上層からは特攻機の進攻状況も判然とはしなかったという。しかし、帰路は会敵の可能性は低く、特攻機を考慮する必要もないため、通常の航進隊形で帰投したものと考えられる。

 244戦隊は翌26日、爾後の防止策として、鹿屋および出水海軍基地に5式戦を派遣してお披露目し、衆知徹底を計った。
 戦隊は、この他5月26、27、28日、6月6日、11日と直掩を実施したが、いずれも本物の敵機とは遭遇していない。


追記 (源田の剣より引用)19.6.24

  五式戦は「紫電改」より航続距離がやや長く、徳之島まで直掩することになっていた。同日、三四三空は喜界島制空に出動した(公刊戦史では三四機発進)。戦三〇一笠井智一上飛昔は語る。
喜界島制空では会敵しなかったが、対向して行き遭った五式戦とあわや空戦となりかけた。だが、日の丸を認め味方撃ちはしなかった
(中略)
  この五月二五日は海軍三四三空側の誤認だったが、六月三日は、逆に 「紫電改」 が陸軍機に敵機と誤認されたのである。
 戦闘三〇一宮崎勇飛曹長は、『還って来た紫電改』で、「四月あるいは六月半ばごろ菅野大尉が紫電改、紫電、零戦五二型各一機を率いて 知覧に飛んだ」と伝えている。空中での誤認を避けるため陸軍の操縦者にそれぞれの違いをよく見てもらうためだった。おそらく、五月二五日 か六月三日、あわや空戦という誤認事件のあった後のことたったのではあるまいか。

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