聞き書き 追加


1.自由主義者
 熊谷飛行学校館林教育隊の特操2期生の中に「自由主義者」を名乗り、東條首相を批判して「日本は負ける」と公言して憚らない者がいた。国難を救う意気に燃えていた我々は、彼の言動を苦々しく思っていた。

 戦後「きけわだつみのこえ」で有名になった上原良司とは区隊が違うので、当時は上原のことは知らなかったが、彼は上原と同じ慶応大学の、ある教授のゼミの出身で、洗脳されていたんだ。
 彼は卒業時に操縦不適格と判定され、地上勤務に回された。

 教育隊では、約50名程度を1個区隊とし、それを4名ずつ12組に分けて操縦教育が実施された。通常、休日や行事も一斉ではなく、区隊毎に実施された。
 したがって、同じ教育隊の所属であっても、区隊が違えば個人的接触の機会はほとんどないのが普通である。
 また、特操2期の場合、教育隊で操縦不適格と判定される者は、15パーセント程度だったといわれる。


2.単機戦闘
 自分が明野の教官だったとき、陸士57期には単機戦闘は全く教えなかった。技倆レベルが低いので出来っこないと分かっていたから。燃料も浪費してしまうし。
 単機戦闘は腕の見せ所で魅力があるのだが、会得するまでには大変な時間がかかり、もうあの頃には現実的ではなかった。

 敵は編隊戦闘だったが、編隊戦闘がよいのは、長機の技倆さえ確かなら僚機は付いていくだけでよいので、経験の浅い操縦者でもなんとかなったからだ。


3.
 操縦では、陸士57期の隊長よりも特操2期の方が上。特に私らはもともと教官・戦隊要員に選ばれたという自負があったから、隊長に何か注意されても馬耳東風だった。

 陸士57期(第96期召集尉官操縦学生)が、赤トンボによる初等教育および、上記2.の通り、単機戦闘を経験していない戦闘操縦者だったことを指している。


4.
 特攻隊の3式戦の武装は、4門全て搭載されていた。ただ、最終的な出撃のときには、軽量化のために2門は降ろすのだと聞かされていた。


5.ラジオドラマ
 知覧の事故で重傷を負って入院中の56振武隊三根少尉が、同僚京谷少尉の発する「我、突入ス」という無線を聞きながら息を引き取ったという、まるで実況中継のようなラジオドラマを、仮泊所で聞いて感動した記憶がある。


6.敬礼
 上級者とすれ違うときは礼をしなければならない。営内では馴れているのと互いに分かっているので間違うことはないが、営外で他部隊の者と行き合ったときは、どうすべきか迷う場合もあった。相手が海軍だと、なおさら。


7.敬礼
 福島の12教(第12航空教育隊)から調布へ転属したとき、整備隊の上等兵が自分らの一団とすれ違った。自分らの引率者は伍長なのに、彼は敬礼もせず、無視して通り過ぎた。
 教育隊ではあり得ないことで、そのとき、ここは実戦部隊なんだと実感した。


8.
 軍医は、軍医学校を出るといきなり中尉。戦隊では同年代ばかりの幹部の中でナンバー4くらいの序列だったから、居心地がよかった。


9.爆弾の音
 爆弾が落ちてくるときの「ヒュー」という音は、実に嫌なもの。でも、馴れてくると爆弾がどの方向に向かっているか判別できるようになる。
 防空壕に避難した地方の人たちに、「爆弾はこちらには落ちないから大丈夫ですよ」なんて説明して感心されたこともあった。


10.
 主人が軽爆中隊長から対潜独立飛行中隊編成のため、呉で対潜哨戒訓練を受けていたとき、一月ほど軍艦に乗っていました。そのとき、水兵を棒で殴るひどい体罰を目のあたりにしており、帰ってきてから
「俺は、ああいうのは絶対に嫌だ。陸軍でよかった…」と言っていました。


11.
 知覧で白井大尉の機付をしていたとき、出撃したが「弾が出ない」と無線で連絡があって降りてきたのだが、武装は機付兵の責任外なので、慌てて武装係を呼びに行った。機銃掃射が降ってくる中だったから、白井大尉も操縦席で落下傘を外す余裕がなくて、そのまま脱出したため、走りながら落下傘が開きかけた。
 
 市川大尉も知覧で戦闘の真っ最中に降りてきたことがあった。自分は視力がよくないので脚の数字が見えなかったら、他の兵隊が「おまえの飛行機降りてきたぞ」と教えてくれた。何しろ黒い敵機が空を舞ってバリバリ撃ってくる最中だから足がすくんで、思うように動けなかった。


12.
 整備第3小隊には絵の上手い軍曹がいて、市川機の風防の下から後部にかけて「龍か何かの絵」を描いたことがあったと思う。

 但し、市川機機付長だった大竹氏および僚機木原氏には件の記憶がなく、否定的。また、3式戦は高々度邀撃を前提に運用されていたので、余分な塗装を施すとは考えにくい。
 可能性としては、20年5月17日、知覧へ向かう際に一部の5式戦に描かれていた絵のことを指しているとも思われるが、定かではない。


13.
 震天隊の場合は出撃といっても余り緊迫感はなくて、皆わりにノンビリ出てくるという感じだった。けれど、戦隊長だけはいつも「まわせー!」と怒鳴りながら駆け込んできたなー。


14.
 曳光弾は昼間はほとんど見えないのだが、これが見えるようになれば一人前と言われた。


15.
 東京の邀撃では、無線が通じないとかいうことはなかった。知覧では特に無線を使うなという指示があったわけではないが、地上からの情報を聞いていただけで、自分から発信した記憶はない。八日市では、使っていたと思う。

 知覧は最前線なので、防諜のために極力送信を控えていたものと思われる。


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