鶴身祐昌氏インタビュー


 故鶴身祐昌氏 (つるみ すけまさ 2001年没)は、陸軍航空士官学校第57期生。昭和19年9月、飛行第244戦隊に同期生6名(高山、田村、横手、生田、前田、杉山)とともに配属されました。
 命課は整備隊第2小隊長、とっぷう隊の3式戦/5式戦整備を指揮しました。因みに第1小隊長は田中武雄中尉(少年飛行兵第3期)、第3小隊長は同期の杉山信男中尉(階級は何れも終戦時)でした。

 鶴身氏は平成6年、244戦隊会が調布で開催された際に拙宅へ寄って下さったのですが、ここに掲載するのは、その時と戦後50周年慰霊祭等でお話下さった内容です。なお、既出の事項と重複する部分もあります。


1.昭和19年のうちの話。特操教育班の97戦が離陸直後のエンストで墜ちた。自分が事故調査委員会の責任者になって調べた結果、操縦者のレバー操作ミスと判明し、操縦者本人もそれを認めた。
 ところが、その報告書を出した途端、教育班担当だった白井大尉が私のところへ怒鳴り込んできた。もの凄い剣幕で、殴り合いの寸前まで行った。部下を庇う気持ちだったのだろう。
 白井さんは中学4年のときに腕試しで陸士を受けたら合格してしまった人で、軍人肌ではなかったな。


2.(指揮官間の確執について)
 戦隊長と白井さんの仲はそう悪くはなかった。むしろ、55期同士の張り合いがもの凄かった。白井は直情型で熱くなるが、方や幼年学校出でプライドが高く、先輩面をするものだから、よくぶっつかった。
 普通、2期以上離れていると一目置く感じで歯向かおうとは思わないのだが、同期の飛行隊長なんて何とも思っていないから、ケンカの寸前まで行くことはしばしばだった。


3.自分の小隊が一番多くの人員を抱えていたのは、他隊で厄介者になっていた問題児が回されてきたから。本当は大した仕事はないのだが、いろいろと工夫して仕事を与えていた。


4.うちの戦隊の技術は高かった。後から補充されてきた3式戦の中には、製造番号が「18」という古いものがあって自分らも驚いたことがある。でも、難しいと言われていた3式戦を244戦隊は使いこなした。だから今でも同期の中で大きな顔をしていられる。


5.3式戦の保有機数は約50機。それに、18戦隊が残していった整備不良機を直して飛ばしていた。これらは「員数外」として書類上は存在しないことになっているが、実際の保有数は50機プラス員数外機になる。

 ただ、素性の知れない機体は操縦者が乗るのを嫌がるので、試験飛行が難題だった。そんなときには、大ベテランの田口豊吉少尉に頼むと快く引き受けてくれて、有り難かった。本当に操縦が上手かった。自分の評価では、戦隊ナンバーワンの操縦者は田口少尉。


6.いつも「全機出動」を至上命題にしていた。「何が何でも飛ばせ」と部下に発破をかけていた。すると、結果として何とかなってしまうもの。
 地上では圧縮漏れでブスブスと音を立てているエンジンでも、上空へ行くと異常なし、ということもあった。


7.3式戦のエンジンのオーバーホール時間は、初めは100時間程度と短かかった。だが、オーバーホールに出してしまうと、戻ってきても試飛行などで数日は使えない。それではどうしようもないので、オーバーホールせずに使えるところまで使うという方法をとった。

 そのために班長級全員を集めて会議を開き、細かい点検表を作って、毎日その表に照らしてどんな些細な不具合でも記録、報告させて重大な不具合の前兆を察知することに努めた。特に、操縦者からの聞き取りを中心に、飛行後の点検が重要だった。
 その結果、オーバーホール時間は
200時間を上回るところまで達した。これなら普通の戦闘機と大して変わらない。これは三谷隊長の功績だ。

 過剰整備でいじり壊してしまうこともあったから、調子の良いものは余りいじらずに使えるところまで使うということだが、結局、オーバーホールしてもしなくても、壊れるときは壊れるということなのだろう。


8.首藤伍長 (少飛13期、20.3.17 航法演習中相模湾で行方不明)のことは心残り。彼の飛行機は特段の問題はなかったが、高々度での出力が若干低下してきたために、新しいエンジンに載せ替えた。
 新しいエンジンには
一定時間の馴らし運転と試飛行が必要で、それがまだ十分ではなかった。通常は洋上飛行は避けるもので自分は反対だったが、どうしても…と言うので「絶対に無理をさせないでくれ」と念を押して送り出したのだが。


9.同期の横手 (戦隊本部横手興太郎少尉)は、操縦は上手かった。大雪の後で事故が続出したときでも、彼はちゃんと着陸していた。
 20年5月28日、知覧へ行く途中で富士などへ降りなければ、死なずに済んだかもしれない。あんなところで5式戦が直るわけがないのに。


10.56期出口中尉は気の毒だった。雲高100メートル以下、昼でも飛べないような天候で離陸直後、雲に入って鉄塔か何かにぶっつかった。
 身体が吹っ飛んで、どこを探してもついに頭が見つからなかった。遺族には気の毒で言えなかったけれど。
 防総や師団からは、天気などお構いなしに「何故飛ばないのだ」と、ヤイヤイ言ってくるから飛ばないわけにはいかなかったのだろう。


11.敗戦のときは、何日か前から情報が入って知っていたが、まさか無条件降伏とは思わなかった。
 終戦処理で11月まで八日市に残ったが、熱くなるタイプだからお前がいると何をするか分からない…ということで、占領軍が来る直前に除隊復員させられた。


12.制号作戦で知覧から小牧へ移ったとき、重爆で先行するはずだったが、天候不良で途中から列車を使い、中国、近畿地方出身の部下はその間に一時帰郷させた。
 途中、空襲で何度も足止めを喰い、小牧に着いたのは一週間後。着いたら、もう飛行隊は八日市へ移った後だった。


13.知覧にはスパイがいて、山上から光で信号を送っていた。それが確認されたので総出で捜索に出かけたのだが、結局発見できなかった。利敵行為をする日本人は多かったと思う。


14.いずれ南九州に戻ることになっていたので、知覧には樋口少尉以下の残地隊を残し、隈庄と大刀洗にも飛行機を置いてあった。



 以下は鶴身氏の著書「みんな死んでゆく」より抜粋

15.陸軍では、飛行部隊で飛行機を勝手に改造すると陸軍刑法兵器改竄の罪があり、第一線では改造はできなかった。


16.鹿児島沖では、気象斥候に行った5式戦1機が米軍のP51、8機に包囲されたが落とされずに帰還している。また、5式戦1機が4式戦3機に対して空中戦闘訓練をしたが、5式戦の方が有利に戦闘を展開できた。


17.陸軍航空をけなすのに、しばしば引き合いに出されるのが、洋上航法の欠落である。陸軍機は海上を飛ぶために訓練してきたのではないから、これは当然である。海軍機は洋上航法が当たり前である。それぞれの存在意義や性格である。


18.陸軍は夜間出撃は原則であり、昼夜を問わず出撃するが、海軍は零戦が例外的に夜間作戦をやった程度で、全体から見ればごくわずかなケースだった。
 陸軍では、夜間戦闘が出来なければパイロットとして熟練者と言えなかった。空中指揮も、陸軍は大佐、中佐の飛行団長までが出撃した。少佐になると地上職の飛行長になる海軍であるが、陸軍の少佐は戦隊長として先頭になって出撃している。戦闘機戦隊長といえども、空中戦では空の列兵であった。


19.編隊空戦も、陸軍の方が編隊機動に忠実だった。海軍の零戦は20ミリ砲を誇っていたが、陸軍も20ミリを使用した。3式戦では13ミリでもB29を撃墜している。B29の操縦席付根に13ミリを集中して首なしになって墜ちている。13ミリに信管付きであるから、20ミリ以上の威力を発揮している。


20.航空兵は容易に参謀になれなかった。地上戦術が陸大の出題であったからだ。操縦、整備、通信の専門戦技を考慮しない陸大であった。


21.浜松飛行場では重爆は格納庫の奥に入っているので、戦闘機は入口付近で遠慮しながら夜間整備をしていた。格納庫でなければ照明がなく、また砂塵の多いところでは作業が出来ないからだ。
 ところが、自分が見回りをしていたときに師団の中尉がやって来て、
誰の許可を得てここに入っている」「出て行け」と追い出されてしまった。
 その数日後(2月16日)、浜松は敵艦載機に爆撃された。すると今度は、浜松教導師団の参謀が怒鳴り込んできた。「
戦闘機は何処へ行ったか」と。


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