山本茂男氏インタビュー


 陸士49期、元第10飛行師団参謀の山本茂男氏にお話を伺いたいとお願いしたところ、「ついでがあるから私が行きますよ。上石原はよく知っているから」と言われ、1991年12月18日、拙宅へお出で下さいました。
 当日は3時間近くお話いただいたのですが、テープレコーダーが不調で全ては記録し得ず、誠に残念でなりません。以下はその一部です。


1.中島飛行機三鷹研究所は、「富嶽」のために調布飛行場と繋げる予定だった。完成予想図を見せてもらったが大きな格納庫が並んでいた。
 調布飛行場の滑走路は北に1000メートル延長する計画で、そのためにはハケ(段丘崖)が邪魔になるので、崩してなだらかにする工事も進めていた。


2.戦闘指揮所は、各飛行部隊毎にあった。だから調布飛行場の東、南、西にそれぞれ設置されていた。


3.昭和19年の調布飛行場拡張の時は、飛田給の3つの寺をお堂ごと曳いて移転させた。
 日本郵船のオヤジ(中野場長)は頑固者で、手を焼かされた。どうしても買収に応じないので、一計を案じて彼を佐官級の軍属に徴用してしまった。


4.京王線の飛田給と車返の間の家並みが途切れているところに誘導路を造って、線路の南の梨畑(石川農場=現鹿島研究所)の中にも飛行機を隠した。


5.第10飛行師団司令部飛行班は、AT輸送機、連絡機、戦闘機など数機を持っていたが、下石原八幡神社の鎮守の森に疎開させていた。

 双発高練の誤りと思われる。

6.コンクリートの掩体は、まず土饅頭を造り、そこに新聞紙の束をぺたぺたと敷き詰め、その上にコンクリートを流した。だから中から天井を見上げると、新聞紙の跡がよく分かるでしょう。


7.深大寺の高射砲第112連隊と第13航空通信連隊は、同居していた。柴崎の崖上の竹藪を切り開いてバラックの兵舎を建てた。


8.対空無線隊と航空通信隊は、持っている機材は同じようなものだが、対空無線は基地と飛行機間の通信、航空通信は各基地間の通信を担当した。深大寺の13航通も、本部では主に教育を実施して、実部隊は各々の基地に分散していた。


9.知覧飛行場は上空から確認し難いので、特攻基地に選ばれた。周囲はトンネルを掘るのに適した場所で、部隊はそのあなぐらの中にいたんです。


10.方探は、屋根に4本のアンテナを立てていた。局舎は金属の釘を1本も使わないなど、大変注意深く作った。確かにこの写真のような建物だった。


11.終戦後の8月20日に調布から軍偵で隷下の各飛行場を回った。松戸では5式戦が30機、整然と並んでいたのが印象に深い。まだタイヤをパンクさせていなかったので、パンクを命じた記憶がある。


12.9月初め頃に藤ヶ谷飛行場に行ったら、もう占領軍がロラン(LORAN)の施設を造っていたので驚いた。


13.吉田飛行師団長は、邀撃を止めて戦力温存をしたい上層部と対立して、更迭された。戦力温存を考え出したら、もうその時点で戦は負け。


14.アメリカさんもこちらの目を誤魔化すため、入って来そうで来なかったり、色々と陽動をやっていた。
 戦後、日本のレーダーは無能であったかのように言われているが、経験を積むことで精度が上がり、実際にはチャフと本物の区別もつくようになっていた。
 先見の明があったと言うか、戦後米軍、今の自衛隊がレーダー基地を造った場所は、我々がレーダーを配置していた場所と全く同じ。


15.飛行団(FB)と飛行師団(FD)は基本的に違いはないが、師団長は親補職となって権限が増え、動かせる部隊も多くなる。最盛期、10FDの指揮下総人員は、3万人にも達していた。
 しかしそれも善し悪しで、大所帯になると他との縄張りが問題になって揉めることもあった。
 飛行団には普通、参謀は置かないが、17FBのときは私一人。それが10FDでは5人に増えた。私はその中で一番下の兵站補給担当だった。


16.戦争末期には、飛行場にはハリボテの偽飛行機を置き、本物は皆、飛行場から遠く離れた場所に分散秘匿していた。
 敗戦後、それらを全て飛行場に集めたのだが、予想外に多く出てきて、中には海軍機まであったのには驚いた。


17.飛行戦隊と飛行場大隊は19年になって分離したのだが、お互いの意志疎通がうまくいかないなど、いくつか問題があった。


18.(調布飛行場大隊長の黒い噂について)
 確かにそんなこともありましたなぁ。内地の飛行場大隊長なんてロクな人物はならなかった。戦時中に物資隠匿などの問題を起こして、退役させられた者も知っています。


19.戦後アメリカを旅行したとき、国民はレベルが低くて計算もできない。なんでこんな国に負けたのか、悔しくて仕方なかった。



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