聞き書き 調布、浜松、その他編−4
37.杉山元帥
防総飛行班は20年4月、第1総軍司令部飛行班に改編された。司令官の杉山元帥は、奥さんが調布の川向こう、稲城辺りの出だった。
杉山元帥は、第3航空軍にいたときの戦利品のパッカードを内地まで持ってきて乗っていた。これが格好よくて、シルバーメタリックだったんだから。
38.第1航空軍
調布飛行場南地区の天文台道路に面した上石原に一番近いところに、李王垠中将の第1航空軍司令部があった。
飛行班は尾翼マークに日の丸を描いていたが、1航軍は白縁のない日の丸、同じ調布の防総は白地の四角い枠付きの日の丸(国旗と同じ)と区別していた。
39.シュトルヒとユングマン
シュトルヒ(3式指揮連絡機)も調布にいたが、対気速度が40キロぐらいになると浮き上がってしまうから、ノロノロ滑走せねばならなかった。だが、スロットルを絞ると今度はエンストしたりで、地上滑走は難しかった。
蚊トンボみたいなユングマン(4式基本練習機)もあったが、これは手がけで始動していた。どちらも速度が遅いから実用的ではなく、軍偵を使うことが多かった。
40.24号機
戦隊長機の24号を特攻に回すというので、ガソリンを入れたバケツを両手にぶら下げて、多磨墓地の方の半地下掩体に試運転に行った。
操縦席には埃が積もっている感じで、しばらく飛んでいなかったようだった。
なかなか始動しなかったが、後で下敷き事故で死んだ森久保兵長が、「まぁ、そのうちかかるだろう」なんて、のんびりしたことを言っていた。森久保兵長は、4年兵だった。
41.予感
操縦者が戦死するときは、一週間くらい前から死相が出るから分かった。ハッとして気になりながらも、気の毒で本人に言うわけにもいかず、出撃を見送る度に「どうか帰ってきてくれ!」と、祈るだけだった。
その予感が現実になってしまうと、実に後味の悪い、嫌なものだった。
42.スロットル
特操教育班の97戦が、離陸直後にエンストで墜っこちた。事故調査委員会が調べたら機体には異常なく、スロットルを逆に操作したための操縦ミスという結論で、操縦者本人もそれを認めた。
その報告書を出した途端、教育班長だった白井中尉がすごいけんまくで整備隊に怒鳴り込んできて、殴り合いの寸前までいった。部下をかばおうという気持ちだったのだろう。
白井さんは、中学4年で腕試しに陸士を受けたら受かってしまったという人。軍人肌ではなかった。
根っからの戦闘分科で操縦には絶対の自信を持っていた。陸士でも4〜5期上だと一目置かざるを得ないのだが、2期ぐらいの違いでは、ほとんど歳も違わないし、なんとも思っておらず、熱くなるタイプだから、よくぶつかった。
注 97戦と1式戦以降の戦闘機では、スロットルの操作方向が逆(97戦は引くと開。他は押すと開)で、3式戦の未修教育時には両方に乗るため、これによる操作ミスがしばしば生じた。
43.田口少尉
自分の評価では、戦隊一のパイロットは田口豊吉少尉。二番目が鷲見曹長。
田口少尉は、「員数外機」の試験飛行も快く引き受けてくれ、整備隊には有り難い存在だった。
44.員数外
3式戦は約50機持っていたが、これとは別に18戦隊が調布に残していった整備不良機が、員数外で何機もあった。
普通は部品取りに使ったりするものだが、戦隊の整備力が高かったので員数外も飛べるように整備していた。しかし、過去の素性の分からない飛行機はパイロットが乗るのを嫌がり、試験飛行が難題だった。
注 員数外とは、公の書類上には記載されていない兵器、備品。事故などで廃棄、抹消扱いとなっていても、実際は修理、再生されて使用可能になっているものを指す。
45.越後獅子
体当りした服部少尉はギターが得意だったがハーモニカも上手で、「越後獅子」をハーモニカで吹いていたんだ。
46.出し忘れ
特操のある少尉が脚を出し忘れて胴体着陸してしまい、殴りつけたことがある。部下を殴ったのはその一度だけ。
47.風呂
大隊の軍医に誘われて、毎夕5時になると風呂へ行っていた。すると小松大尉は既に入っていて、いつも風呂場で一緒になって親しくなった。
まだ飛行機に乗ったことがないと言ったら、「僕が乗せてあげるよ」と、次の日、高練を飛ばしてくれた。