聞き書き 調布、浜松、その他編−3
25.安藤伍長
安藤は女にもてたよな。大刀洗から台湾の第106教育飛行連隊へ転属の時も、甘木の駅で、付き合っていた女の子も一緒に列車に乗り込んできたのには驚いた。死んだ時も、日暮里の方に許嫁がいたんだ。
26.畑井伍長
畑井のところへは、中野区相生町に住んでいた同期生の姉妹がよく面会に来ていて、畑井が戦死してからは、二人は玉懸(たまかけ)軍曹と付き合っていた。玉懸に連れられて、その家にも遊びに行ったことがある。
27.ピンポン
白井大尉は、無口だけどいい人だったよ。部下思いで、シャンとするところはシャンとしていて。軍人という雰囲気の人ではなかったが、操縦もピカイチだった。
操縦者は暇つぶしによくピンポンをやっていたから、みんな上手かった。ところが、白井さんは下手で皆にかなわず、いつも悔しがっていた。
そこへピンポンの下手な自分が転属して来たものだから喜んで、「ちょっと来い。俺が一丁揉んでやるから…」なんて、よく相手をさせられたもの。
28.畑井伍長
藤田時代、みかづきのピストは防総飛行班の傍だったから、大格前のエプロンで、みかづき対防総でよく野球をやった。
畑井清刀もその仲間で、戦死する直前、支給されたばかりの真新しい飛行服を着て防総の事務室に現れ、「俺は、これを着て体当りするぞ!」と叫んだんだ。
29.B29
B29を後方から攻撃することは、密集編隊が崩れていない限り、強力な防御火網と高速のため、有り得ない(近づけない)。
前上方攻撃は、照準が付けられないので現実的ではない。また直上方攻撃も、反転のタイミングが極めて難しいので「不可能」と断言しても構わない。有効なのは、やや上方からのすれ違いざまのみ。
市川大尉はいつも、
「とにかく占位が全てだ。ぶつかるつもりでやれ。ぶつかる!と思った瞬間、ほんの心もち舵を押すんだ」と言っていた。
「舵を押す」というのは、飛行機は速度が上がると自然に機首を上げてしまう性質があるので、機首下げ方向に舵を修正しないと照準が外れるということ。
30.B29
初めてB29が来て邀撃したとき、タ弾(ただん)を下げていたものだから7000より上には上がれなかった。
目の前で見るB29は綺麗で立派。こんなもの壊してしまってよいのだろうか…と、本気で思った。今だから言えるけど。
31.麻雀
本部の副官や作戦室の将校同士で、夜は麻雀が恒例だった。一人足りないと、麻雀のできる白井大尉を呼んできて卓を囲んだ。小林時代の指揮官の中で麻雀をしたのは白井さんだけだったから。みかづきでは、村岡大尉の影響もあって麻雀が盛んだった。
そんなとき、麻雀をしない小林戦隊長は、一人ぽつんと事務室の隅から冷ややかな視線を送っていた。
32.出口中尉
出口中尉の事故は、雲高100メートル以下の昼でも飛べないような悪条件だった。離陸直後に多磨墓地の辺りの送電鉄塔か送電線に接触したらしい。
身体がバラバラになっていて、どこを探しても頭が見つからなかった。遺族には気の毒で、そんなこと言えなかったが。
あの時は隊長機も機位を失って「キホウホ」を発信。方探に探して貰い、大ベテランの田口少尉が救援に飛んで、連れて帰ってきた。
33.軽爆転科
244戦隊から転属させられたのは、全く不本意だった。私は、帝都防空戦で戦うのが夢だったから。
渡辺洋二さんの本を読んでも、白井君や佐藤さんたちのことは何も書かれていないので不思議に思っていたのだが、(戦隊史を読んで)白井君が自分の跡を継いでよくやってくれたと思う。
あとから「小林戦隊長」と聞いたときは、耳を疑った。軽爆転科なんて、そんなのダメです。なんにもできません。
34.飛行時間
飛行時間は終戦時で750時間。少飛13期の中では最多。もう少しで夜間戦闘にも出されるところだった。
35.佐藤准尉
佐藤さんはおっとりした実にいい人で、操縦も上手かった。特に横滑りで逃げる技術は抜群だった。降りると必ず講評してくれ、こと細かくアドバイスしてくれた。
本当にお父ちゃんみたいだから、自分はいつも「ちゃん」と呼んでいた。
36.市川大尉
市川さんの腕は戦隊一だった。自分が僚機になったとき、
「俺の言う通りにしていれば、お前を絶対に殺さない」と言ってくれた。
単機戦闘で自分が勝てたのは2割ぐらい。市川さんが負けたときは、降りてから、
「いやー、お前には一本やられたなぁ」と、ニコニコしながら頭をかいていた。優しい人だったよ。