聞き書き 調布、浜松、その他編−2


16.十二社(じゅうにそう)
 特操連中は、毎晩のように新宿の十二社へ飲みに行っていた。よく誘われたが、我々下士官は外出許可証がないと営門を出られないので、飛行服のままこっそり飛行場を抜け出て、上石原駅で彼らと落ち合って京王電車に乗った。


17.十二社
 明野から調布に転属したのは、20年5月初め。特攻隊は「生きているうちに、やっておかないと損」だから、調布に来てからは毎晩十二社に通った。
 5月25日の大空襲で十二社が焼けてからは、新井薬師。そこも焼けてからは、はるばる八王子までも遠征していた。


18.A曹長
 A曹長は「俺は戦闘機は嫌いだ」と、いつも言っていた。出動命令が出ると便所に駆け込んで出てこない。それで専ら教育班で未修教育とか曳航機や連絡機を飛ばしていた。

 教育隊に転属させてくれと長年運動していた甲斐あって、20年春頃に転属したんだ。あんな兵隊さん、他に見たことなかった。
 「床屋の女房をもらったから、俺はいつ除隊しても大丈夫」と、自慢していた。
 教育班の特操たちには厳しくて嫌われていたが、我々少年飛行兵には優しく親切に教えてくれた。


19.少飛13期
 戦隊長命で、教育班の特操と少飛13期対抗の単機戦闘をやったら、特操は13期に歯が立たなかった。そしたら特操連中は藤田戦隊長に、こっぴどく叱られた。「将校のくせにだらしがない」って。

 その後で特操の代表が我々を呼びに来て、彼らの部屋に行ったら、全員整列で
「ひとつお手柔らかにお願いします。自分たちにも教えて下さい」と頭を下げられた。気分よかったよ。
 そのせいか、特操連中は我々には優しかった。


20.高々度演習
 19年の秋、高々度演習をやって着陸するとき、高空の低温のために作動油が固くなり片脚が出なくなった。
 出ない方の翼をギリギリまで浮かせていたが、ブレーキが使えず速度が落ちないので、仕方なく翼を地面につけた瞬間、クルクルッと機体が何回も廻って、その勢いで近くにあった飛行機の尾翼を壊してしまった。

 三谷整備隊長が先頭になって血相を変えて走ってくるのが見えたから、「あぁーこれはぶん殴られる…」と思った。
 ところが、三谷隊長は天蓋を開けるなり、
「怪我はないか? 無事でよかった。上手な着陸をしてくれたから、これなら直せるぞ」
と、逆に褒めてくれた。あれは忘れられない。


21.親同然
 小林戦隊長が復員して八日市から調布に帰って来たとき(20年11月)、世話になった調布町の有力者の家に挨拶に行った。
 そうしたら、戦時中は親同然に面倒を見てくれた人が、手のひらを返したような門前払い。玄関の中にさえも入れてくれなかった…と、小林さんは嘆いていた。


22.追浜飛行場
 よく海軍飛行場の上を飛ぶと、P51と間違って対空砲が撃ってきた。撃たれながらも不時着したら、「黙って降りるんじゃない!」と、そこの隊長に怒鳴られた奴もいた。

 羽石少尉が追浜飛行場に不時着しようとして失敗、海に突っ込んでしまったとき、心配して自分も追浜に降りた。
 友軍だったと分かると「いやーよい飛行機ですね」なんて、急に愛想がよくなって、コーヒーをご馳走してくれた。あれは美味かった。


23.派遣要員
 連絡のための派遣要員というのがあって、戦隊から将校、準士官、下士官各1名が一〇飛師(ひとまるひし)司令部に出向させられていた。


24.夜間訓練
 村岡大尉の訓練の激しさは有名だった。夜間訓練が多くて、夜中にスピーカーから音楽が流されると、その後で号令がかかった。「あぁー、またか」という感じ。でも部下の気持ちを掴んだ教え方が上手で、失敗しても怒られるようなことは一度もなかった。

 演習中、他戦隊の曳航機の標的を翼で切ってしまったことがあった。「しまった!」と思いながら報告すると、「あぁ、そんなの気にするな。ほっておいてよし」と。
 村岡さんが244戦隊を育てたんだ。



目次へ戻る