聞き書き 調布、浜松、その他編−1


1.作戦室
 作戦室(戦闘指揮所)は、初めは本部の3階にあった。しかし空襲に弱いから、後から半地下コンクリートの建物に変わった。でも、空が見えないのが欠点で、空襲の時は屋根に上がって空を見上げていた。


2.宮田伍長
 244戦隊で最初の死者は少飛8期の宮田伍長。まだ97戦の時代で、遺体と飛行機の回収に行かされた。
 小金井の方の民家の玄関に突っ込んで、体が半分地面にめり込んでいた。確か、その家の息子もショックで亡くなったと思う。


3.全力出動
 小林時代、全力出動というのは、どんなに多くても30機。それも滅多になかった。「とっぷう」なんて10機揃ったのは見たことなかった。

 飛行機の数ではなく、出撃できる操縦者が揃わなかったという意味


4.双練
 調布の近くで双発高練がP51に撃墜されたとき、30人ぐらいがトラックに乗せられて機体の回収に行った。
 結核病院の中庭みたいなところで、2階から患者たちがこちらを見下ろしていたのを覚えている。胴体を移動させたら、中に溜まっていた戦死者の血がザーッと流れ落ちてきた。

 20年4月7日のことと思われる


5.乗用車
 知覧にはトラックしかなかったけれど調布には乗用車が何台もあって、必要なときは頼んでおくと、指定時に配車されてきた。シボレーとか、大きなアメ車だったが、中にはフランス製の車もあった。
 救急車というのはなかったから、患者は乗用車に乗せて、軍医が付き添って病院に運んだ。


6.怪我
 飛行機事故の怪我は、全くの軽傷か瀕死の重傷かどちらか。中間はなかった。だから、今なら助かった…という例は、まずない。


7.医務室
 特操連中は藤田戦隊長にガミガミ叱られていたから、何かしら理由を付けてはよく医務室に逃げ込んで来ていて、彼らの溜まり場みたいになっていた。


8.士官学校
 ○○さんとか士官学校出の人なんか関係ありませんよ。244戦隊は、私ら少年飛行兵と特操で戦ったんです!
 一緒に飛んだ特操の佐々木さんやョ田さん。私らと歳は大して違わなかったけど、人格的に尊敬できる人たちだった。生きていたら、どんな立派な人物になっていたか…と思う。


9.レバー
 戦闘の時は、操縦桿やレバーをじわーッと動かしていてはダメなんだ。瞬時にパッパッと、思い切りよく動かさないと。


10.単機戦闘
 20年春になって比島から帰ってきたY曹長は変わった人だったが、操縦は上手かった。5式戦の単機戦闘で、隊長をこてんぱんにやっつけちゃったんだから。隊長機がもう滑走路に着陸しているのに、それでも後ろからしつこく狙ってたのにはビックリ。


11.単機戦闘
 高々度邀撃が専らだった時期にも「みかづき」は頻繁に単機戦闘をやって鍛えていたが、燃料を使いすぎる…と本部からクレームが出たと聞いた。
 何が一撃離脱か。戦隊長のレベルでは、巴戦などできなかったのではないか。


12.掩体
 降りてきて自分の掩体に戻るとき、ギリギリまで掩体に寄せてからクルッと廻る。そうするとそのままバックで最短距離で掩体にしまえるから。
 下手な奴だと、掩体から離れたところに止めちゃうから、機付に迷惑をかけてしまう。


13.紳士的
 244戦隊ほど紳士的な戦隊は知らない。だから自分はこの戦隊が好きで、転属を命ぜられたときは落胆した。244Fの前にいた柏の戦隊なんて、まるでヤクザ集団だったから。


14.友だち付き合い
 戦隊長が俺たち下士官如きと友だち付き合いしてくれるなんて、他の戦隊では絶対考えられない。
 それに、うちの戦隊には威張る人なんか一人もいなかった。だから戦果も挙がったんだ。


15.営門
 外出の時に営門を通ったことなんて、なかった。飛行場をまっすぐ突っ切って、水路を飛び越えて飛田給の駅へ出た。これが一番近かった。
 飛田給で何か店屋をやっていたおばさんが、「特攻隊なら、タダでやらせてやるよ」と言っているという噂だった。

 これは特攻隊の将校の話で、軍紀違反を犯しても、特攻隊の場合はたいがい大目に見られていた。
   外周水路には飛行機誘導路の橋がいくつも架かっていたが、ここには衛兵がいるため、そこを避けて水路を飛び越えた。



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