兵のつぶやき その3


59.
 東京で交通の便もよかったから慰問は実に多かった。宝塚のスターが来たこともあった。
 慰問ではないけど、大格での映画会も時々あった。フランス映画も上映された。
 けれど慰問も最後の方では、お礼に貰える食糧目当てが目立つようになってきた。歌手の楠木繁夫が、楽器も持たず、たった一人で来たときはみじめだった。


60.
 深大寺の13航通の営外曹長だった佐野周二は、連絡と称してよく戦隊本部に来ていた。一度、奥さんと小さい子供を飛行場に連れてきたこともあった。あの子が今の関口宏じゃないのかな。


61.
 鈴木伍長の機付をしていて、彼とは気があっていた。
 (本部に引き抜かれたとき、白井、市川両者が猛反対したことについて)そうだろうな。鈴木伍長は二人に可愛がられていたから。


62.
 佐藤准尉の機付だったとき、夜間戦闘で佐藤さんが戦果を挙げた。そのときは、もう機嫌がよくて「オレは夜間、得意なんだ」と何度も言っていた。おっとりしたいい人だったよ。


63.
 裏門の近く、天文台の下には、この辺の名物のワサビ漬けを売る店があり、飯盒を持って、よく買いに行った。
 ここには美人の三人娘がいて、憧れの的だった。その一人は、調布の操縦者と結婚したと聞いた。外出で家へ帰れるときも、ワサビ漬けをお土産に買っていった。


64.
 とにかく飛行機に乗りたくて、三重まで行って海軍を受けたが、海軍の適性検査は厳しくて落ちてしまった。まだ合格前の検査の時から精神注入棒で殴られている奴がいたのには驚いた。
 海軍にいた知り合いに、あと一年待って予備学生を受けたら…と勧められたが、待てずに特幹に応募した。
 特幹の試験では適性検査など大したことはなくて、すんなりと「はい合格!」という感じで拍子抜け。


65.
 西那須野に置いてあった3式戦の整備に行かされた。見たらすぐに直るのに、班長が
「こりゃ、部品取り寄せなきゃだめだな」って。
 その部品が来るまで、一週間温泉三昧。軍隊では、そういうことよくあった。


66.
 海軍の月光が東京出張で来て故障してしまった。部品交換の要があるとか言って一ヶ月以上も大格に置いてあったが、3式ならエンジン換装でさえ半日あれば充分だったのに、おかしいと思った。そうやって出張日数を稼いでいたんだ。


67.
 機付兵といっても、曹長クラスが班長(分隊長)になって、普通は1個小隊分(4機)を管理している中で仕事をさせられるので、担当の飛行機が厳密に固定されているわけではない。


68.
 飛行機の性能試験をするときは、上空のパイロットが無線で計器の数字を読み上げ、それを地上で受信して記録した。


69.
 出撃の時、ピトー管のカバーを外し忘れることはよくあった。滑走を初めても速度計が動かないのにびっくりしたパイロットが、急停止しようとしてひっくり返って飛行機を壊したこともあった。


70.
 ハ40の吸排気バルブの間隙は、ギャップゲージで計りながらダブルナットで調整した。
 前に読んだ本に、これが大変難しかったなどと書いてあったが、そんなことはないはず。


71.
 冷却水量は大ざっぱでもよかったが、潤滑・作動油の量は、暖まると膨張するとかで、厳密に守らなければいけなかった。


72.
 慣性始動機はよく壊れた。間違っても大事なエンジンを損傷させないために、始動機の方はわざと弱く作ってあったんだ。始動機の交換は好きな仕事だった。
 冬、寒いときは油が堅いので、最初は一人ではきつかったが、普通は一人でも充分回せた。


73.
 点検口から胴体内に入らなければならないときは、絶対に脚から入れと言われていた。そうでないと、出られなくなる。


74.
 工具や部品には螺鑰(らやく=スパナ)、螺桿(らかん=ボルト)、牝螺(ひんら=ナット)とか、やたら難しい名前が付けられていたが、現場では、世間と同じ呼び方をしていた。


75.
 3式戦の燃料は「きゅうにい」を使ってた。244戦隊では97戦にも92オクタンを入れていたが、そのまま使うとプラグが焼き付いてしまうから、オイルを混ぜてオクタン価を下げないと…なんて話もあった。

 規定等級以上の燃料を使用しても、短期的には特に問題はない。「プラグ」はバルブの間違いと思われる。


76.
 双発高練を始動車で始動したら、始動車の軸と高さが合わないために無理がかかって、スピナーが一度でダメになったこともあった。高さは97戦に合わせてあったと思う。慣性始動の方が無難だった。


77.
 後から来た特攻隊は操縦の下手な奴が多くて、よく飛行機を壊した。
 オレオは本来、油漏れはしないはずなのだが、ある少年飛行兵は、度々オレオの油漏れを言ってきた。見てみると確かに漏れている。それで「お前いったい、どんな着陸してんだよ!」と言ってやったこともある。


78.
 とにかくダメだったのは、点火プラグ。毎日交換していたくらい。朝の試運転では回ったのに、昼にもう一度やるとかからなかったり…という状態。
 係留時のプロペラの向きは、別に決まっていなかったよ。


79.
 3式戦の空気取入口に付ける防塵フィルターには、夏用と冬用があった。ラジエターにも、冬は冷えすぎを防ぐフェルト製のカバーを付けたが、ミンクのコート並の効果があると聞かされていた。
 これを付けるときは、「ミンクのコートを着せてあげるからね」と、飛行機に話し掛けながら仕事をしたもの。


80.
 動翼の後縁には、雷避けの5センチくらいの電纜(スタティックディスチャージャー)が付けてあったのを覚えている。


81.
 始動の時、スロットルは3分の1くらい開けたと思う。試運転中に一番注意していたのは、ブースト計の動き。


82.
 (飛燕戦闘機隊の試射の写真を見て)マウザーは、あの頃はもうあんまりなかったから、おかしいと思った。
 マウザー砲には「分解禁止」と書かれた札が貼ってあって、戦隊ではいじれなかった。


83.
 ペラの後流で、冬場はぬかった泥が跳ね上がってラジエターの中まで詰まってしまう。これをとるのは大変だった。ぬかっていると尾輪も役に立たず、方向を変えるときは機付が尾翼を持ち上げて向きを変えた。


84.
 本来、地上係留時には常に燃料満タンが決まりだったが、空襲が激しくなってからは被弾時の炎上を防ぐために燃料タンクは空が原則になって、試運転でも飛行でも、その都度必要な分だけ入れるようになった。
 だから、空襲で飛行機が燃えたのは一度だけだった。あれは確か多磨墓地に置いていた高練で3式戦ではなかった。燃料を抜いていなかったんだ。
 飛行場から秘匿掩体まで自走で転がしていこうとしても、途中でガス欠になって、あとは手で押して行かなければならなかった。これが重労働だった。


85.
 田中絹代はきれいだったなー。後になって、実は田中絹代はスパイをしに来たんだ…なんていう噂が流れた。


86.
 入営前に床屋で奉公していたが、そこでのイジメや暴力は兵隊になってからの比ではなかった。だから自分には軍隊の方が楽だった。軍隊は、一旦要領を覚えてしまうと居心地のよいところだった。


87.
 自分が主に安藤伍長機、同期のTが戦隊長機の整備をしていた。
 安藤機(45号機)がエンジンに被弾、滑空で成増に不時着したため、エンジンを載せ換えることになり、大格で作業をした。

 隊長僚機は長機よりも先に始動して待機するため、特に始動性が重要だが、試験の結果、始動性がやや悪かったため、安藤は他機を使うことになり、本機はみかづきに回された。
 そのときに自分ともう一人、軍曹が「世話係」のような役目で飛行機と一緒にみかづきに行かされた。そのあとは釘田伍長の機付をやった。

 2月16日、釘田が未帰還(東京湾に落ちたといわれた)になったときは、飛行機の故障が原因ではないかと気が気ではなかった。あとで、落下傘の紐を敵機の翼で切られたらしいと聞いた。


88.
 パイロツトは皆、紳士的で、もの静かだった。


89.
 台湾から来ていた特幹は皆、体格がよくなくて、チンポコに毛の生えてない奴もいたから、自分たちは「子供の兵隊」と呼んでいた。何かあると、すぐに「お母さーん」と泣き出す奴もいた。
 その一人は「林大山」という立派な名だったが、空襲のときは怖がって、自分の傍から離れなかった。


90.
 内務班に暖房があったという記憶は全くない。とにかく寒くて、廊下や床にはムシロを敷いたり、窓にはぶら下げたりして凌いでいた。


目次へ戻る