兵のつぶやき その2
31.
起床は6時、消灯は9時だった。でも空襲が激しくなったり、戦隊が浜松だの知覧だのと動くようになって、最後の頃は全然めちゃくちゃになっていた。
32.
親爺が死んだとき、内務班では「おまえのオヤジ死んだってよ」なんて言われて隊長室へ行った。そしたら三谷隊長が丁重に、「父上が亡くなられたそうだ」と、10円の香典と休暇を許可してくれた。こうも違うもんかなーと思った。
郷里からの帰りに空襲で列車が止まり、帰隊期限に間に合わなかった。班長からは「期限までに死んでも帰ってこい」と言われていたから、ヒヤヒヤしながら隊長室に報告に行ったら、隊長は「おおッ、帰ってきたか」と迎えてくれた。
隊長室のドアーは、いつも開けっ放しになっていたと思う。
33.
1式戦の部隊が来ていたとき、244戦隊の整備兵が転がそうとした3式戦が暴走して、その1式戦の尾翼を次々と囓ってしまったことがあった。こいつは後で営倉に入れられたんだ。
34.
松林の兵舎(注)にいたとき、ある班長が、自分の班の台湾兵たちを「植民地の兵隊」と言って、毎晩ひどく虐めていた。あんまりひどいから階級も忘れて「やめろ!」と怒鳴りつけた。
注 現在の調布中学校一帯
35.
飛行場の北の方に「呑竜」がいたことがあった。いや「飛竜」だったかな。教練でその周りを何回も走らされたことがあった。
注 邀撃任務で調布に配置されていたキー109特殊防空戦闘機のこと
36.
警備中隊の動哨は10人くらいで飛行場の外周をぐるぐる回っていた。夜は灯火管制で真っ暗闇だから、途中で一人二人抜けても分からない。
要領のよい兵隊は、こっそり抜けて一休み。隊列が一回りして戻ってきたところで、何食わぬ顔で列に戻るなんて芸当もしていた。
37.
漫画家横山隆一が慰問に来たとき、小林戦隊長と酒を飲んで意気投合、戦隊長室のベッドで一緒に寝た。朝になってみたら、戦隊長が床に落っこちていて、横山隆一がベッドで大の字なんてこともあった。
38.
防総の参謀が市ヶ谷から調布に来て、軍偵で飛んでいった。乗ってきた乗用車は運転手が乗り、エンジンをかけたまま待機している。行く先を聞いたら、成増だって。無駄なことしてるなーと思ったよ。
39.
震天隊は出撃といっても余り緊迫感はなくて、皆、ノンビリ出てくるという感じだったが、戦隊長だけはいつも「まわせー!」と怒鳴りながら駆け込んできた。いま思うと可笑しい。
40.
飛田給の郵船に連絡を命じられて行った。そしたらプールの縁に、芝刈りでもしてたらしいニッカボッカ姿の品のよいおじさんが腰掛けて煙草を吸っていたので、
「おじさん火、貸して」「あぁ、いいよ」「あんたどこから来たの?」
なんて、しばらく世間話をした。
何日か後でまた郵船に行ったら、なんとそのおじさんが「赤(佐官階級章)」を付けた軍服を着て、膕(ひかがみ)を伸ばした特操連中に説教してた。普段は威勢のいい特操たちが、皆シュンとなって。あの時は、前のことを思い出して青くなったよ。
郵船には、場長の娘だったのか、綺麗な若い女性がいたんだ。以前、テニスか何かの選手だったような話も聞いたが。
注 日本郵船飛田給錬成場の中野場長は、佐官待遇の軍属の身分を与えられていた。膕(膝の裏)を伸ばす=直立不動の姿勢
41.
飛行機が遠くの飛行場へ行くときは、事前に行く先の飛行場宛の電報を打った。本部の2階の無線室に、電報用紙を持って行かされたもの。
上空の飛行機からの無線はクリアーに聞こえていて、「たかね、たかね、富士山上空」「みかづき、大陸(着陸の意)」とか耳に残っている。
通話試験の時は必ず「感どうか、感どうか、明どうか、明どうか、終わり、送れ!」
注 離陸(出撃)は、「あおぞら」
42.
航空糧食をかっぱらって営倉行きになった奴もいた。航空糧食なんて、飛行隊へ行って話せば、いくらでも呉れたのに。
43.
脱柵は結構あったが、女性問題が原因なのが多いと聞いた。脱柵者が出ると部隊総動員で探した。仮泊所の押入の中にうずくまっていて見つかった奴もいたが、頭がおかしくなったらしくて、不問に付された。
終戦後、除隊になるのが待ちきれなくなって逃げた奴も何人かいた。
44.
班長が「おい、ちょっと航廠行って来るぞ」と言っていなくなっちゃう。なに、そんな用があるんだ?と思っていたら、航廠の事務の女の子が目当てだったんだ。飛行場に他に女はいなかったから。
注 立川航空廠出張所は調布飛行場の北東端にあった
45.
整備隊本部の横の地面にムシロが敷いてあった。血が付いていたけど小さいから「動物の死体か?」と思ってめくってみたら、飛行服が見えた。それが丹下少尉だった。
46.
戦隊本部にいたA軍曹は元々整備兵だったが、あるとき、飛行機の翼の下で昼寝しているところを見つかった。「どうもこいつは整備兵には向いていない」ということになって、本部の事務にまわされたんだ。
47.
特幹(特別幹部候補生)は1期が19年の夏に配属されてきたが、同じ1期でも、前期と三月違いの後期は後から来た。同期なのに前期の方が先任になるから威張っていて、両者は仲がよくなかった。
軍歌演習では、流行っていた「特幹の歌」の歌詞「嗚呼特幹の大刀洗」を「我ら特幹の三谷隊」と変えて歌っていた。
48.
飛行機が不時着した場合には、機密保持のために必ず無線機の水晶片を抜いて捨てるのが操縦者の義務だった。
多摩川に不時着した飛行機の救援に行ったら、操縦者が自分は怪我で動けないものだから、「水晶を抜いてくれ!」と叫んでいたのを覚えている。
49.
所沢整備学校から繰り上げ卒業で調布に配属されたのは、17年4月頃。私は森田隊(1中隊)で溝口中尉(52期)や渡辺中尉(53期)に可愛がられて、同期生と二人、よく将校食堂でご馳走になった。森田大尉は陸士ではなく下士官上がりの人で、年輩のおじさんだった。
50.
知覧で戦隊長の当番をしていたとき、戦隊長の褌を洗ってしまったら怒られた。部下といえども、そこまですべきではない…と。
51.
村岡大尉は洒落者だったな。映画女優が慰問に来たときなんて、軍服じゃなく背広を着て出迎えてるんだから。
52.
「ガンバコ」と呼んでいたキ−115は、馬車に積んで運んできたんだ。
53.
特攻隊の小倉中尉に頼まれて、郷里へ送る荷物を武蔵境の駅まで出しに行った。着いた途端に爆撃に遭い、あの時は生きた心地がしなかった。
ホームに積んであった荷物の山が爆風で吹き飛ばされ、そこら中に散乱していた。その中に、名前は忘れたけど有名な小説家の原稿があって、一枚拾って持って帰って来たことがある。
54.
仮泊所の係だった兵隊はオカマで、夜間空襲のとき、女言葉で「怖いわ。助けて!」と言いながらしがみつかれたのには、参ったよ。
55.
調布の西側にいた武装司偵が、夕方、天文台の傍に落ちて炎上した。焼けた機関砲弾が、ビュンビュン飛び跳ねていたのを覚えている。
注 独飛17中隊杉本博中尉(56期)の殉職事故
56.
殉職した御厨中尉(56期)は四宮中尉と仲がよくて、飛行隊ではいつも二人一緒にいた。
「御厨なんて、殿様の料理番だったんですか?」と聞いたら「うーん、そうかもしれないなー」って。
57.
大隊の警備中隊は営門から入って一番奥の方にあり、その手前が補給中隊だった。補給中隊の写真係は、昭和8年兵だという写真館のオヤジで、事故があると記録写真を撮っていた。
58.
整備兵で、飛燕の胴体に入り込んで昼寝しているうちに飛行機が飛んで、西那須野飛行場まで連れて行かれた奴がいた。しかも、途中3000メートルの高度を飛んで。
一人乗りの戦闘機しか来ていないのに、なんで整備兵がいるんだ?と、西那須野から電話がかかってきて発覚したんだ。