兵のつぶやき その1
1.
空襲警報が発令されると、機付は皆、自分の飛行機の機側で待機をし、解除になるまで動けなかった。
浜松では、飛行隊が出撃した後に残った飛行機は、整備兵が操縦席に乗って番をすることになっていた。天蓋を絞めると真冬でもポカポカで、ここでの昼寝は最高だった。
2.
入営前、横須賀海軍工廠で働いていた。そのときに海軍の制裁(暴力)の凄まじさを知っていたから、徴兵検査で陸軍と言われたときはホッとした。でも、調布(244飛行場大隊)に来てからのビンタも半端じゃなかったけど。
3.
三谷隊長は夜の点呼の時、身体の具合が悪いところはないか、兵隊一人一人に声をかけて聞いていた。
4.
大貫大尉はウイスキーを部屋に隠していて、当番兵勤務の時、お相伴にあずかった。内務班に帰ると「おまえ酒臭いぞ」ってばれちゃって、殴られた。
5.
飯ができると、まず医務室に持っていって軍医の検食を受け、「よしっ」となってから皆に配られる。
検食といっても一箸つけるだけだから、後は当番が食べさせてもらえた。
6.
戦隊本部の当番は、3人。当番長は大隊警備中隊から、あとは大隊補給中隊と戦隊整備隊から一人ずつ。
暖房はストーブでコークスを焚いていたが、戦隊本部や作戦室には、終日焚ける分は大隊から配給されなかった。
本部の当番兵になると腕の見せ所で、朝5時前、警備の動哨(パトロール)が廻って来る前に、袋を持っていってコークス置き場から失敬してくる。それを3日続けると使い残りが出て、1日休めるという感じだった。
「お前もよくやるなー」とか呆れられながらも歓迎されて、よくご指名が来た。ばれたら営倉行きだったから、いま思うと危ないことをしていたもの。
7.
20年5月末、複戦の飛行第4戦隊が調布へ来たとき、戦隊長機を掩体に誘導した。そしたら戦隊長(小林公二少佐)が、まるで子供に言うみたいに「お礼だよっ!」と、お菓子をくれた。
あの戦隊は、付いてきた整備隊が全員下士官で、兵隊がいなかったのには驚いた。
8.
各整備小隊にも99式小銃が配備されていたが、その手入れも当番の仕事だった。でも、手入れが悪いって、よくビンタをくった。
9.
何度も「私的制裁の禁止」が通達され、全員集められて訓示があったが、あまり効果はなかったな。
注 一方、明かに効果があり、制裁は大幅に減ったという証言もある。それぞれの部署によって差があった。
10.
小林戦隊長の当番になると、夜、「なんか喰うものないか」と言われ、炊事に残り物を貰いにやらされた。
飯を飯盒に入れて来て、味噌を付けた焼きおむすびにして出すと、「お前も喰え」と、分けてくれた。いい人だったよ。
11.
芥川少尉は整備隊本部の兵器係をしていて、毎夕そこへ飛行時間などを書いた記録簿を持っていっていた。
「みかづきはいつも遅い」とこぼしていたが、芥川龍之介の長男だと知ったのは、戦後のこと。
12.
柏の4教から調布に転属したとき、引率してきた下士官が、「お前、くれぐれも問題を起こしてくれるなよ」と、念を押した。考課表によほど悪いことが書いてあったんだなー。
13.
18年に調布へ来たとき、もう3式戦になっていたが、「戦隊長機は?」って聞いたら、「あぁ、これだよ」と目の前の97戦を指さされた。
B25の初空襲の時も新聞は鉄桶(てっとう)の陣なんて書いていたから、もっとしっかりしているのだと思っていたら、その時も97戦で邀撃したと聞いて、がっかりしたよ。
14.
外出中の松谷伍長が夜間空襲で死んだときの、160振武隊長豊嶋少尉の、あの憔悴しきった顔は忘れられない。
15.
仮泊所の食堂には酒の一斗樽が置いてあって、自由に飲めた。ウイスキーもあった。
仮泊所では、階級はあまり意識しなくてよかった。だいいち、皆で酒飲んでいれば階級なんて関係ないもの。
注 仮泊所は本来、操縦者用宿泊施設だが、地上勤務者の場合も入室(医務室で寝る)するほどではない軽い傷病者は一時宿泊した。
16.
159振武隊長高島少尉が調布を発つとき、赤ん坊を抱いた若い女性が見送りに来ていて、ハラハラと涙を流した。あれを見たときには、飛行機ぶっ壊してでも出発を止めたいと思った。
特攻隊を送り出した後の機付兵は、どんなことをしてでも戻ってきてくれ…という気持ち。心の中が空っぽになったよう。
17.
龍源寺に近い方には裏門があった。ほとんど人が通らないから、歩哨に立たされると暇で仕方なかったが、「兵隊さん、食べなよ」って、農家のおばさんが芋などを差し入れに来てくれるのが嬉しかった。
龍源寺には、近藤勇のことを解説した小冊子が置いてあって、遊びに行くと住職さんが、近藤勇のことを色々と教えてくれた。
注 裏門は現在の航技研飛行場分室正門付近にあった。
18.
草刈りは警備中隊の大事な仕事。一列に並んでざっと刈り取ると、後はトラックを走り回らせてならしてしまった。
19.
将校には育ちのいい人が多くて、勝島見習士官は、「僕はお香を焚かないと眠れないんだよ」と言っていたっけ。
20.
今までの人生で一番役に立ったのは、軍隊時代に出会った人たちから教えられたこと。自分にとっては、人生の学校だったと思う。
21.
新兵の頃は、木銃を担いでしょっちゅう行軍させられた。天文台、多磨霊園、人見ヶ原、深大寺、多摩川原…。天文台の崖には、昔の古墳(横穴墓)が、いくつも口を開けていたのを覚えている。
たいていどこかの民家で休憩させてもらうのだが、必ず女一人の家を狙う、たちの悪い班長もいた。
22.
芥川比呂志少尉に引率された行軍では、多摩川で俳句の指導があった。彼は、いつも帳面を持っていて、句が浮かぶとこまめにメモしていた。
23.
当番で給仕していたとき、茶碗を割ったことがある。しまったと思ったら、特操の土肥少尉に「命あるものは、いつか滅びるんだよ」と言われ、偉い人だなーと思った。
24.
炊事の兵隊はみんな階級章外してた。だから新任の見習士官は騙されて苛められたんだ。炊事の班長は、「こいつらは、今のうちにイジメとかなくっちゃな!」と、よく言ってたっけ。
25.
本部の近くに、戦隊の戦没者の遺影や遺品を展示してある部屋があった。みんないい家の息子だったんだなーというのが、印象。
26.
つばくろ隊長小松大尉は小松宮様(海軍中将)の長男。本部の黒田軍曹は黒田侯爵家の出。だから、遙拝式のときなども、まず小松大尉、次が黒田軍曹、それから戦隊長の順だった。
27.
作戦室の黒田軍曹は優しい人で、当番兵がすり切れたシャツを着ているのを見て、「僕のをやるよ。名札を変えればいいから」って。いつもカメラをぶら下げて歩いていたと思う。
28.
内務班は全部で10班あった。月一度の無礼講のとき、隊長は班ごとに一杯飲まされた。三谷隊長は酒はあまり強くなかったので、あれは大変だったんじゃないかな。
29.
板垣軍曹から貰ったハーモニカを吹いていたら内務班長にばれて、班長はものすごい剣幕で「ふざけた野郎は何奴だ!」と怒鳴り込んできた。
ところが「一曲吹いてみろ」と言われ、「たれか故郷を思わざる」を吹き出したら、鬼のような顔が見る見る優しくなって勘弁してくれた。
30.
調布飛行場の北の端には独整(独立整備隊)がいたんだ。炊事班から一番遠かったから、飯ができると一番先に運んだ。飯は「バッコ」に入れて竹竿につるして持っていった。バッコには25人分の飯が入った。