飛燕戦闘機隊〜帝都防空の華 飛行第244戦隊写真史〜
内容についての補足・訂正


冷却水排水口について 11.4.21

3式戦1型甲〜丙の胴体内燃料タンクは撤廃されていない 07.12.21


 

台湾の飛燕 05.4.29

 新しい話ではありませんが、雑誌「丸」1996年3月号に、台湾の台中飛行場で撮影された3式戦の写真が掲載されています。
 根拠が示されていませんが、キャプションによると、第6教育飛行隊の教官用機だそうです。尾翼マークは確認できませんが、本機の機首には電光が描かれていることから、元244戦隊機では?とも書かれています。
 一度も外地へ出なかった244戦隊の飛行機が台湾にあったというのは不思議な話なのですが、本件について推理を試みることにしましょう。

 鍵は、独立飛行第23中隊にあると、私は考えます。独飛23中隊は昭和19年2月、244戦隊を編成担任(親部隊)として新編され、台湾に配置された3式戦の部隊です。

 新編の部隊は新しい兵器を装備するように思われがちですが、そうとは限りません。兵器は新編部隊の員数分が親部隊に一旦配備されてから、新編部隊に分配する形をとります。
 ですので、親部隊が新品を貰い、お古を新編部隊に回すこともあります。これが極端な場合には、「編成泥棒」と呼ばれました。

 つまり、244戦隊が以前から保有していた飛行機を独飛23中隊にまわし、その後更に教育飛行隊に移管されたのが、この電光を描いた3式戦であった可能性はあると思われます。

 ただし、この仮説が当たっているとしても、244戦隊が独飛23中隊に意地悪をしたのではありません。新品の3式戦は不具合の発生が顕著だったので、台湾までの洋上飛行と現地での整備体制を考慮して、安全のため、ある程度使い込んで実績のある飛行機を 同中隊に回したことが考えられます。
 たったの80時間でクランクシャフトが折れたのは極端な例ですが、まだ一度もオーバーホールを経ていない新品のハ40は何が起きるか分からず、信頼を置けなかったのです。

 本書に掲載されている写真を改めて見直してみると、19年春以降に生産された最新のタイプである「丁」はきわめて少なく、244戦隊が専ら中古機を愛用していたことが分かります。性能は若干落ちても、信頼して飛ばせることが何より肝要だったのでしょう。

 なお、独飛23中隊には244戦隊の人員が数十名転出しているように、いわば親子に近い関係にあるわけですが、一方、第6教育飛行隊の前身である第106教育飛行連隊からは、村岡飛行隊長をはじめ、少飛10期、11期、12期の操縦者が244戦隊へ転入しており、たぶん逆の例もあったはずですから、距離は離れていますが、この3つの部隊は人的に深い繋がりがあったのです。

 あくまで推理ですが、たった一枚の写真から、その背景に思いを巡らせてみるのも一興かと思います。


訂正1件 05.4.2 (第2刷では修正済み)

 36、37頁(H0700)のキャプションで、71号機の十干(じっかん)を乙と書いてしまいましたが、「」が正しいです。したがって、「乙だから云々」の部分も取り消します。
 「新造機のよう」ではなくて新造機そのものだから、塗装も綺麗なのでしょう。このような迷彩が製造工場で施工されるようになったのは19年秋以降のはずで、244戦隊には、この時期に製造された5262と5276が配備されていたことを確認していますから、本機の番号は、あるいは「5271」かもしれません。

 十干はプラモマニアでもあれば即座に判別できるのでしょうが、当方は全く疎く、また日頃、重要視していないために粗相をしてしまいました。
 元隊員諸氏の中でも、十干による違いを正確に理解している人はいないでしょう。「
機種がちょっと長いのもあったっけ」という程度。エンジンでもあればともかく、この程度の違いは実際の運用には無関係なので、意識していないのが普通なのです。

 お教え下さった西川さん、有り難うございました。またご教示下さい。


オルソフィルム 05.3.3

 昭和20年3月19日、出撃時の4424号主翼前縁が赤く塗られていた件について、これはオルソフィルムを使用したためで実際は黄橙色なのだと、想像だけで断定される方がおられるように仄聞しています。そこで、本件について改めて考察してみました。
 ただし、大東亜戦末期の感光剤事情等は明確でないため、フィルムに関しては、あくまで写真常識の範囲から推論しています。

1.本写真は、同日ほぼ同時刻に撮影された5262号写真と一連のもので、5262号写真では前縁が黄橙色と判断される明度に写っていますから、こちらはオルソではなく一般撮影用のオルソパンであることは確実です。

2.両写真のオリジナルプリントから、フィルムはおそらくカビネガラス乾板で、プリントはその密着焼きと推定します。したがって、排気管整流カバーに小さく打刻された「5262」の数字まで読みとれるほど、極めてシャープです。

3.昔、オルソフィルムが重宝がられたのは、赤に対して無感のため、赤色安全光には感光せず、現像の進行具合を視認できたからです。
 しかし、人物の顔や衣類が黒ずんで違和感をきたす欠点があり、多人数の集合写真以外には通常、人物撮影にはあまり使われるものではありません
(赤系色彩のない、風景や山岳写真等には適)。

4.そこで、両写真に共通して写っている人物の顔と衣類の明度を比較してみますと、特に差異は認められません。オルソフィルムであれば、顔色と特にカーキ色の衣類は、もっと暗く沈んで写るべきものでしょう。

5.連続して撮影する2枚に敢えて異種のフィルムを用意することは、撮影の常識として考えにくいことですし、これは陸軍自身が企画撮影したものですので、地方のように物不足によってあり合わせの材料を使ったなどということもないでしょう。

6.プロペラ先端の黄色標識が暗く見えますが、これはプロペラ、スピナー全体に迷彩色がスプレーされているためで、実際は暗く写っているのではなく、迷彩色で塗りつぶされているのです。

私は20年2月〜3月当時の4424号の胴体機軸帯を「赤」と判断していますが、本写真がオルソフィルムであるなら、当然、この帯は真っ黒く写っていなければなりません。

8.上記2枚はカビネ暗箱による撮影と推察されますが、これとは別にもう1枚、4424号の右主翼前縁が写っている写真があります
 これは手札サイズのプリントであることや鮮鋭度等から、ブローニー版
(6×6)または35ミリロールフィルムによるものと判断します。オルソは上記の特長からも、ロールではなくガラス乾板またはシートフィルムであり(今日販売されているのも4×5シートのみ)、この手札プリントの原版がオルソとは考えられません。にもかかわらず、このプリントでも翼前縁は暗く写っています

9.赤の味方識別色は原則として非迷彩機の場合で、迷彩機は黄色でなければなりません。事実、本件の場合も赤であったのはごく僅かの期間だけだったことが、他の写真から読みとれます。このような軍紀違反を敢えて犯すことは、戦隊レベルではなく、上部、おそらくは30戦飛集司令部からの命令によるものと推察します。
 編隊の先頭を飛ぶ戦隊長機の翼前縁は当然、さらに前方からしか見えませんので、この目的は誘導機(重爆)からの識別であったのだろうと想像します。

 以上を総合すれば、本件がフィルムによる感色性の問題ではなく、実際に赤く塗られていたとの結論が導かれるものと考えます。

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戦隊での写真事情

 因みに、部隊内部では写真はどのように扱われていたのか、聞いている範囲で書いてみます。
 部隊としての記録や公式の写真は、原則として飛行場大隊の写真係が受け持っていました。視察や慰問団来訪時の記念写真も担当していたと思われます。

 個人的に写真は撮れたのか?…という点は、下士官以上で軍機に触れない限りは自由に撮れたようです。ただ、あまり目立つとまずいので、程度問題だったでしょう。
 将校でよく写真を撮っていた人が、同期生から「軟弱なことは止めろ」と批判されて、カメラを持たなくなったという例もあります。

 飛行機も全体像でない限りは撮影できましたが、飛行機だけというのは誤解を生むこともあるので、ほとんどは人物の背景として写っているだけです。

 フィルムは写真銃
(ガンカメラ)用が戦隊には大量にあり、倉庫係に袖の下として航空糧食の「鉄飴てつあめ」などを持っていくと分けてくれました。

 最大の問題は現像・焼き付けで、部隊で処理するわけにはいかないため、つてを頼って現像所
(明大前辺りにあった)に依頼する必要がありました。
 しかし、それもせいぜい19年末頃までの話。20年になると空襲と戦闘でそんな余裕はなくなり、写真の多くは報道機関が撮影したものになります。


素晴らしいイラスト 05.1.13

 本書を読んで下さった西川幸伸さんから、3式戦の素晴らしいイラストが送られてきましたので紹介します。
 これはパソコンで描かれたものですが、CGではなく、Eペインティングと呼ぶそうです。リベットの数までほぼ正確に再現され、その精緻さと立体感は、私には驚きの一語です。

 西川さんは他の機体についても描いて下さっていますが、これらは今後、当サイトのなかでお見せできると思います。
 西川さん、本当に有り難うございました。

■ 西川さんの作品へ


陸軍機の動翼は灰緑色? 05.1.2

 私自身は模型とは無縁なので、皇軍機の塗装について特に関心はありませんし、重要なこととは思っていません。
 しかし、出版物の記述のなかで疑念を感ずる点はいくつかあります。軍紀と厳格な規格のなかで製造されている同一機種の色が、一見して判別できるほど違うなどということはないはずですが、3式戦/5式戦の迷彩色にしても、ものの本には3通りもあったかのように書かれています。

 常識としてそんなことはないと思いますし、そもそも、わざわざ色調を変える理由も必然性もありません。ある元隊員は、褐色の3式戦イラストを見て「迷彩は緑。こんなの見たことないよ」と言っておりました。

 それはさておき、以前から疑念を抱いていたことの一つが、無塗装陸軍機の羽布張り動翼部分が「
灰緑色」だったという説です。当時の写真の多くからも、私には銀色にしか見えませんが、これは何を根拠に、誰が唱えたのでしょう。

 羽布張りは戦前に確立した過去の技術で、私自身、実地は知りませんが、羽布の塗装について手元の文献ではこう書かれていますので、引用しておきます。
 これらは、いずれも航空整備の基本マニュアルの古典として知られたものです。我が国の基礎的航空技術は全て欧米からの輸入でしたから、当然、羽布の塗装に関しても作業工程は基本的に同一と判断されます。

 なお、着色仕上げは機体色に合わせるということで、化粧上の理由と表面平滑化(空気抵抗減少と汚れが付着し難くする)のためです。この仕上げの後、更なる表面平滑化のため、透明ドープまたはラッカーを吹き付ける場合もあるようです。


1.米国民間航空規定18/米国民間航空局編/日本航空整備協会/1965年

 (1) 透明ドープを2回刷毛塗り。第2回目の後で紙ヤスリをかける。
 (2) 透明ドープを2回、刷毛塗りか吹きつけで塗装し、紙ヤスリをかける。
 (3)
アルミニウム色素入りドープを2回、各回の後に紙ヤスリをかける。
 (4) 色素入り(希望の色)ドープを3回、紙ヤスリをかけ、完成後なめらかなつやつやした仕上げになるように磨く。(以下略)

2. 航空機の整備と修理法/ノースロップ工科大学編/日本航空整備協会/1963年

 (1) まず透明なニトレート ドープをブラシまたは同様に充分ドープが浸透する方法(高圧スプレー)により塗布し、2回目の塗布後、紙ヤスリでこする。
 (2) 透明なニトレート ドープをブラシまたはスプレーで1回塗布し、紙ヤスリでこする。
 (3)
アルミ着色ドープ(aluminium-pigmented dope)を2回塗布し、各塗布毎に紙ヤスリ仕上げをする。
 (4) 所要の色の着色ドープを3回塗布し、紙ヤスリ仕上げをし、更になめらかな光沢のある仕上げ面となるようにこする。(以下略)


後ろ姿はョ田少尉 04.12.6

 本書38、39頁H0497の一斉暖機運転風景は、おそらく朝8時頃に写されたもので、地を揺るがす轟音が聞こえてきそうな写真です。戦隊の日課としてこれが毎朝繰り返されていましたが、出撃などない場合には、昼時にも、もう一度回しました。
 一度でよいからこの情景をこの眼で、この耳で体験したいというのが、私の子供時代からの叶わぬ夢であり、この仕事の原点でもありますが、菊池氏のお陰で疑似体験することができました。

 ところで、画面の左側に後ろ姿の操縦者が一人写っていますね。この人が誰なのか、実は以前から気になっていました。
 ョ田克己少尉
(20.6.6特攻戦死)の姪で、本書についても大きなお力添えをいただいたョ田千代子さんによりますと、この姿が、亡くなられたお母さま(少尉の妹、冨美恵さん)の後ろ姿、歩き方にそっくりなのだそうです。
 この場所がまさに震天隊の準備線であることから、この人物が、当時震天隊員だったョ田少尉である蓋然性は極めて高いと思われるのです。

 富美恵さんは間もなく一周忌を迎えられますが、お元気なうちにお見せできたら…と、つくづく思いました。


機関砲の誤射? 04.11.25

 元戦隊員各位にも本を進呈していますが、「こんな写真があったとは!」と、驚きの声が上がっています。しかし、菊池氏の写真に写っている当人たちですら、自らが被写体になっていたことを記憶している人は皆無でした。

 本書64、65頁
(写真H0531→これは菊池氏自身が付けたネガのコマ番号)の、そよかぜ隊16号機操縦席付近に硝煙らしき煙が漂っている件に関連して、整備第3小隊(みかづき)で市川忠一大尉乗機の機付をされた方から情報をいただきましたので、紹介します。

ある時、たぶん「とっぷう」ではなかったかと思いますが、機首が戦闘指揮所を向いていて、銃砲電源を入れたまま操縦桿を握って発砲させてしまい、戦隊本部から大目玉を食らったと聞いたことがあります

 とのこと。
 「みかづき」は、補助滑走路を隔てて配置されていたため、これはあくまで伝聞ですが、位置関係からして、戦隊本部や戦闘指揮所に最も近いのは「そよかぜ」の準備線なので、当該写真が、このアクシデントそのものの瞬間であった可能性は否定できません。

 その他、マウザー砲は精密なため、戦隊レベルでの整備は禁止されており、砲本体には「分解禁止」とステッカーが張ってあったという証言も寄せられています。


88号機のその後 04.11.20


菊池氏の撮影法 04.11.15

 菊池俊吉氏の写真の素晴らしさは見ての通りですが、その陰には様々な苦心があったはずです。菊池氏は、常時5台の35ミリカメラ(たぶんライカ)と2名の助手を駆使して撮影に臨んでいたそうです。

 面白いと思ったのは、カットの配列。1シーンを連続的に撮影する場合、普通は1枚撮って巻き上げ、次のカットを撮る…よって、何枚か一連のカットが同一フィルム(巻)の中に並ぶことになります。
 ところが、彼のネガはそうではありません。連続するカットが複数のフィルム(巻)に跨っています。つまり、1つのシーンで3回シャッターが切られたとすると、1枚目のカットはフィルムAに、2枚目はフィルムBに、3枚目はフィルムCに写っているという具合。1枚撮るたびにカメラを換えているのです。

 菊池氏がシャッターを切るとき、助手Aは次のカメラで既にピントを合わせておき、菊池氏に渡す。助手Bは写し終わったカメラを受け取り、巻き上げて助手Aに渡す。助手Aは次のシャッターに備えてピントを合わせる…。3人とカメラ3台が、まさに一つの歯車となって回転しながら撮影が行われていたと想像されます。

 これが、モータードライブもない時代のプロ的連続撮影法だったのでしょうが、あまりに鮮明なためにブローニー(6×6)以上の大判だと信じていたフィルムが、実は皆35ミリだったことと合わせて、私には新鮮な驚きでした。
 ただそのために、あるカットの前後に写されているはずのカットが、どのフィルム(巻)にあるのか分からず、全体の撮影順もきわめて確認しずらい欠点があります。

 このような状態では、カットの選定には密着焼きが不可欠ですが、密着が作られているのは実は一部でしかなく、しかもその密着を借りだしたまま返さなかった許し難い出版社まであるそうです。

 今回は昔から憧れであった菊池氏の生の写真に触れたことで、私自身勉強になりましたし、読者の皆さんも、このように撮影の舞台裏を想像しながら本書の写真を眺めるのも、また違う趣があるのではないでしょうか。


30頁および35頁訂正(第2刷では修正済み)

 91オクタン 92オクタン
 九一揮発油
九二揮発油
 「陸軍の実用機…」以下を削除


118頁 写真38 「22号機」について

 
下の画像は映画「最後の帰郷」に登場する22号機の始動シーン。左側にも「722」と大きく書かれていますが、これは、撮影上、同一機を他機に見せかけるための細工とも考えられます。
 しかし、20年5月3日に調布を出発した第56振武隊上原良司少尉機のように、エンジン部に3桁の数字が大きく書かれていた例もありますので、本機の場合も元々こうであった可能性は否定できません。



大映映画「最後の帰郷」より。車輪止めにも「22」と書かれている。



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