12月21日 晴
敵も今朝か、1時頃来たと云ふ。何時もであったら警報のために目をさますのであるが、何も知らなかった。又、警報もこの飛行場では耳元で鳴らざるために遠いサイレンのみで、対して我らの睡眠を左右しない。
然も我らの頭上より、高師(注=豊橋市高師)附近に焼夷弾を投下していったと云ふ。小癪なる敵よ。其のうちに昼間来てみよ。我等がいる。きっと落してやる。
相変らず此々は風が強い。9時頃、大野曹長がやって来た。全く初年兵以来の交際断たざるは彼のみ。わざわざ俺のために、公用にて会ひにくるとは、然も12時迄、何かとつきぬ話しをする。
中野伍長の母が面会に来た。これも調布に我々が出発した後に面会に来たさうで、気の毒に会ふことが出来ず、又、其の足で遠い此方まで来たと云ふ。
今日は敵もくるころであったが、さっぱり姿を見せず、また夜になったらやってくるかも知れない。彼等も夜は市内を、昼は工場地帯を狙っている。
戦隊長殿以下6名も、出口中尉、福元伍長の告別式のため、調布に帰らなければならない。
12月22日 晴
どうやら今日は風も少く、8時半から小隊戦闘のため、離陸。浜松市上空にてするも、満足なる攻撃、否、戦闘ならずして着陸す。結局、種々の都合に依り、演習は午後と決定。
新聞記者が、また写真を撮らしてくれと云ふ。隊長殿以下、編隊毎に写真を撮る。
今日は敵のくる頃と、皆待ち切っていたが、11時30分頃、警戒戦備甲となり、一部出動となった。
「敵は八丈島北進」と云ふ。
まづ、みかづき隊の出動。食事もまだ出来ないために、其の儘上った。
我々は待期であったために、食事が出来たので急いで食べる。丁度食べ終った時に、とっぷう隊の出動となった。
離陸し高度3千位にて、敵の編隊が浜松の南方海上6千米位の高度で北進するを発見。悠々と航跡白雲を引いて飛んでくる。
素早く隊長機に翼を振って記号したが、隊長殿は判らぬらしい。高度7千附近にて、敵機は(此れは10機編隊)もう名古屋方向に行く。
早くも上った友軍機は、盛んに攻撃している。此の時、友軍機の直降下を見る。「やられたか」と思って見ていると、機首を上げた。まあよかったと安心。
次にも3機位の編隊が北進している。然し我が機よりは程遠く、とても攻撃出来ない。
待つこと暫し…目前を1機通り過ぎたB29。しまった、もうおそい。
また待つ。5機編隊の、もう爆撃し終って帰るのであらう、名古屋方向から南進してくるのを発見。射撃しようとして構へたが、距離が遠い。それでも眼前にくるや射撃した。
何のことはない。其の後方に高度を低下してくる1機を見つけた。これに前上方から機関砲も機関銃も砕けよとばかりに射撃した。
見よ、もう四発の発動機から白煙をはいた。又も後上方より一撃。然し、もう弾は出なくなった。
敵機は、ぐらぐらっとした。だが落ちない。相変らず白煙をはいて高度をぐんぐんと低下して南方に行く。恐らく大島附近までは飛べないであらう。
遂に1機撃破(注=当人は撃破と書いているが、陸軍は撃墜と認定した)することが出来た。どうしても此の目で、一回でよい、撃墜すると云ふ敵機の断末魔を見てやりたい。
弾薬の補給に着陸。再び離陸。敵は浜松に投弾せず、浜名湖西方の山に焼夷弾を投下したのであらう。山が火事になっている。
まもなく着陸。戦果を報告す。
並木(小池方)から便りあり。面会するとの事。然し、もう遠く浜松にあり。何かと忙しく暮らし、日も西方に傾く。
12月23日 晴
毎日とよく天気の続く時だ。敵機が来襲するならば、我々にとっては天気のよいのが何よりだ。
今日は、首藤伍長(注=少飛13期、20.3.17殉職)と共に調布迄飛行機をとりに行く。自分の持って行く飛行機は、圧縮もれのやつだ。あまり調子はよくない。
単機離陸、空中集合。富士山に向ひ直進す。相変らず富士山は昔乍らの姿をとヾめ、悠然としてそびえている。
富士山を過ぎてから、相当に強い気流のため、飛行機は上下左右、ともすれば操縦桿をとられさうであった。首藤は気流のためであらう、編隊に着けず、遠くの方に離れてしまった。
山を越すと、懐しい関東平野が見える。浜松から50分。着陸。
みんな、自分に「お目出たう」と云う。「撃墜したさうですね」と云ふ。
「なーに、大したことはないよ」と云ふのが、自分の言葉であった。
飛行機の整備もならず、遂に1機のみとなり、首藤は一生懸命整備を手伝ひたるも其の甲斐なく、始動するも発動機の調子良好ならず。
遂に単機、自分は首藤を調布に残し、16時近く、離陸。首藤一人残して来たが、彼が一人で浜松迄「まよはず」にくるか心配でならない。若しものために自分の地図を彼に與へてやったが、大丈夫であらう。
着陸した時には日もくれて、夜間の設備がしてあった。
12月24日 晴
哨戒飛行のため、5時半に起された。まだ外は暗い。6時近く、離陸。
浮いた後が悪い。小隊長機が見つからなくなった。無線を以て種々と地点等を聞いたが、感度、明瞭度が悪くてわからない。
やむを得ずして、無線のよく聞こえる地点にてこれを問うて、漸く隊長機の位置も判りたるも、間もなくして着陸となる。
大野曹長が、又俺の所へ遊びに来てくれた。色々と飛行機について尋ねる。
再び哨戒のため、彼とは別れた。名古屋方向に1時間。着陸してから、案じていた首藤伍長が帰って来てくれた。
配給の蟹かんに舌をいたくする。
相変わらずほこりのたつ飛行場だ。天幕の中には居られない程だ。外に出て、隊長殿以下、石投げをやって遊ぶ。
俺の殊勲も讀賣新聞には大きく出ている。写真を小原中尉殿のと間違へているらしく、まるっきり俺には似ていない。白井大尉殿も生野大尉殿も写真が揃っている。
宿舎に帰る頃は、いつもくらくなっている。明日は雨になるか、月は笠をかむっている。(以上)
はがくれ日記はここで終わっているが、吉田竹雄曹長は3日後の27日1326頃、既に白井大尉以下みかづき隊第1小隊などの攻撃を受けて高度を落としつつあったB29の右側発動機に、後上方から体当りを敢行した。
吉田曹長が体当りしたB29は錐揉みとなって東京湾上に墜落し、その模様は多くの都民に目撃され、また新聞社によって写真にも撮影されている。
吉田曹長機も激突の瞬間、左右両翼と胴体の三つに分解して落下した。吉田曹長も機外に放り出されたが、運悪く落下傘も開傘せず中野付近に落下して戦死を遂げ、244戦隊における最初の体当り戦死者となった。