12月8日 晴

 大東亜戦争、第三周年。
 朝と云っても3時頃、空襲警報。残念にも我ら其の任を離れたり。しかし多数機来たならば上るであらう。しかし2、3機の模様。大したこともないが、警報とか情報のため、充分に睡
(ねむ)れない。

 朝、大詔奉戴式を行ふ。
 敵も愈々神経戦に入ったか、1機、2機と適当にやってくる。
 無二の親友、大野曹長来る。震天隊員の録音あるに付き、来れとのことにて、ピスト迄行く。

 放送局から来ている。マイクロフォンを備へて、自己の決意を云ってくれと云ふ。全く我、当惑せり。
 何とて話すことなくマイクの前に立つ。何と云ったか、どうせ俺の頭では満足にまとまっていない。然し、官氏名を云ってくれと云はれたので困った。

 これがラヂオで放送されたら、俺は恥をかく。なんと恥ずかしい。もう少し熱弁を振へる様であったらよいのであるが。
 でも故郷では、おそらくラヂオを身にいれて聞いているものはないだらう。それでどうやら安心が出来る。まあ、中野や板垣のような奮闘をしたならばよいのであるが、なんの手柄もなき俺は、全く恥ずかしい。


12月9日 晴

 朝のうちは曇り出したが、昼近く、晴れ出す。つばくろ隊も解散となりて、浅野曹長、中野伍長、我等が隊に来る。
 朝から急に警戒警報が鳴り出した。また来たか!

 我が隊に出動はない。また1機位であらう。敵も昨日の我がサイパン爆撃に、また此の間の邀撃で多数の飛行機はないのであらう。そのために、1、2機と侵入するのみであらう。我等が期待していた8日の日も全くなんのことなくすむ。
 夜中の3時頃か、警報がなったが寝薬を服用せるため、はっきりと判らず。
 午後、分隊戦闘
(注=2機単位の戦闘演習をやる。2回目の低位戦では、我完全に撃墜せられたる様子なり。

 田口准尉入院す。
 我らが古参者も全くいない。鷲見曹長も今朝たって、兵庫の方に行かれた。とっぷう隊も淋しくなったもの。
 20時近く、警戒警報発令。敵機は長野の伊那方面に1機位にて、焼夷弾を投下したる模様なり。
 もう敵も多数機を以てやってくる事が出来ないのだ。もうないのだ。此の間の爆撃に、全く失敗したのであらう。


12月10日 晴

 朝も静かに、今迄の戦ひは想像もつかないほどに。
 今頃レイテ島は修羅の戦場になっているであらうに、東京は米機70機を持って数回爆撃せるも、之にこたへる所なく、ラヂオは声高々と鳴る。どこに爆弾が落ちたかと思はれる程。

 午前、小隊戦闘
(注=4機単位の戦闘演習。分隊長も仲々むづかしい。思ふ様に戦闘が出来ないものだ。
 午後は戦隊教練にて、調布→前橋間、航進隊形および戦闘隊形
(注=下記参照
 広い々々、関東平野。然し汽車では前橋までは5、6時間かゝるであらうが、僅か30分内外だ。飛行機は早い。

 此の間、此の基地を出発した護国特別攻撃隊の戦果発表があった。黒石川伍長が遂に其の目的を達成す。なによりだ。
 途中にて戦死はせぬかと心配したが、俺の名もある、あの首巻をして敵艦とさし違ひて死んだのだ。全く涙するものあり。有難い。今も又、黒石川の戦果発表がある。

 夜21時頃、またも警報あり。
 1機は熊谷から、1機は銚子から。銚子附近にて会一して東京に焼夷弾落下。照空燈、高射砲の射撃また凄し。

=「航進隊形」は1〜2機長程度の機間で飛ぶ、通常の編隊(巡航、離着陸時)。「戦闘隊形」は、数十〜100メートルの機間をとる。


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