12月5日 晴
遂に新聞には第一面の見出しに大きく出た。三名の体当り。然も四宮中尉殿と板垣伍長は、片翼機と共に大きな写真が出ている。
奮戦記等、故郷の人も又、新聞を見てはいるであらう。少からず親たるもの、我が子の奮戦あるや否や、隅から隅まで読んでいるであらうに、自分はなにもしていない。
現在迄に何回となく敵は来ているに、幸運我に来たらず。
遠藤軍曹又、興奮している。「俺が死んだら、何々と何々がここにあるから云々」戦友に頼んでいる。「やるぞ」「俺もやる」と力んでいる。
必ずや死するを以て目的とせるを可とせず。あせって死ぬな。撃ちてし止まん。
また、よい事もあらう。全く自分には、その運が廻って来ないのだ。
きっとくる。体当りだ。死ぬであらう。名誉もいらぬ。只、一機落して死にたい。一機だ。
今の自分が特別攻撃隊員として、然も一ヶ月もなる。恥しくて隊内を歩けるか。
失敗談を話したとてなんになる。恥をさらす様なもの。
遠藤軍曹は外出をしている。なにかようか。
突然、○○特別攻撃隊(注=振武隊第2飛行隊→後の19振武隊)は出発となる。又、俺は突風隊復帰を命ぜらる。
残念に特別攻撃隊の目的を達せずして終るとは。一ヶ月、俺は何もしなかった。死する心算で居たが、又生きるのか。然し何時敵弾に死するか判らず。
遠藤軍曹(注=20年2月16日戦死)は外出のため、特攻隊行きは阿部伍長(注=同じ予備下士で遠藤の後輩。20年5月4日、知覧から出撃するも不時着生還。復員)。交替、出発。
同期生の小林軍曹も行く。学校から現在まで「だに」の様に二人は離れずに居たが、遂に別れる。俺一人となった。
テーブルの上に白の布を掛け、戦隊長殿より神酒を戴いている。
「小林よ、しっかり頼むぞ」
これが、俺が小林に云った言葉だ。
輸送機に乗り、巣立ち行く特別攻撃隊(注=相模飛行場へ)。送る人の打ち振る手、送られる人、我さえも涙にうるむ。幸福なる哉、彼等悠久の大義に生きんとする。
それにひきかへ、我が不運。
3時近く、私物品やら寝具やら、とっぷう隊に持って行く。引っ越しだ。
はがくれ隊も別れる。多勢居た室も、遂に板垣伍長を残し営外者の佐藤准尉と二人きり。淋しくなったもの。楽しかった起居も約一ヶ月で別れる。
晩には会食をしようと云ふので、俺と三人で僅かの酒にて食事をする。考へれば全く短い生活であった。
12月6日 曇
畏(かしこ)くも東久邇宮殿下より、昨日「震天制空隊」と命名せられたり。
その隊長、四宮中尉殿も昨日出発し、我また、突風隊に復帰せり。全く残念なり。餘りの落胆にて食事も満足にとれず。
分隊教練(注=2機編隊による訓練)も情報にて中止。
やがての出動に離陸。B29 1機、帝都に侵入せり。又も偵察か。
過般の爆撃に、敵アメリカの本国へ打電したところを盗受せる所に依れば、48機未帰還との事。8割以上の戦果を我ら制空隊は収めり。
満足に到着せるは僅か20機とは、敵も相当こたへたであらう。
遂にその1機も邀撃し得ずして着陸せり。全く運来たらず。敗残の将に似て、心さわやかならず。
新聞には体当り勇士の殊勲を讃へている。今日も中野伍長の殊勲を明日発表するか、記者が忙しさうである。
今夜、○○(注=特攻護衛)のため師団管下を離れたり(注=第6航空軍指揮下へ?)。
又、敵機侵入の模様。然も此の耳で聞いたことなき異常爆音を聞き、外に出てみた。警報もなく、しかし…。また、夜も満足にねむれず。
12月7日 曇
昨夜の急に降り出した雨も止み、1時頃、B29 1機乃至2機侵入の模様。空襲警報も発せられたり。
またも投弾せずに遁走せり。こんなことで全く神経質な自分には、満足な睡眠がとれない。
また、昨夜半に○○準備のため、落下タンク等を明朝迄に全機装着を完了スベシの命令に、整備員もまた起きて整備。朝迄には全く準備しありたり。その労苦、全く翼の陰に涙するものなり。整備員がなくば、我ら空中勤務者は如何に操縦が出来るとも敵機の撃墜は勿論、飛ぶことも出来ないのだ。
震天隊に於て遊び、ギターを弾いて楽しむ。
夜19時、敵機また来襲したり然も1機位。投弾せず遁走す。
身辺の整理また出来て、今日も再び還らず。由、また骨還らざるを用意して遺髪をとる。梅原伍長(注=少飛12期。20年2月10日体当り戦死)、これを刈りたり。
○○護衛、嗚呼光栄。然し犬死にする可能性大である。今迄の震天隊員にて奮闘せるが、どんなによかったらう。
ラヂオは中野伍長の奮戦記を盛んに報道している。