東京調布飛行場の沿革 12.8.1


↑ 昭和16年7月初旬、竣工間もない調布飛行場。同月中には陸軍の管理下に入り、第17飛行団司令部、飛行第144戦隊、独立飛行第101中隊、第14航空通信隊が配置された。
 この頃陸軍は、僅か2週間おきに3度も調布飛行場を空撮しているが、第17飛行団の編成を控えて工事の進捗状況を確認していたものと推察される。

=調布飛行場建設事務所。建物は、翌17年拡張された南格納庫地区に残り、第17飛行団司令部の施設として利用された。のどかな時代で、職員が現場に出払ってしまうと、所長の未だ小学生の息子が電話番をさせられていた。
=高亀病院。17年拡張で立ち退きとなり、2階建の建物ごと甲州街道と京王線路を渡って飛田給駅南まで移転した。昭和23年、成長の家に買収された。
=日本郵船飛田給錬成場造成中。昭和17年に完成したが、19年度拡張で敷地は半分になってしまった。
=陸軍中央無線電信所調布受信所。昭和14年、東京市王子区から移転。
=大格納庫と飛行場司令所。ほぼ完成している。本来、航空局航空試験所が使用する計画だった。
=東京飛行機製作所調布工場。水田を埋め立てて用地を造成中で、野川の流路も直線に変更されつつある。


 

                調布飛行場計画平面図
 昭和13年12月、用地買収の際、約300名の地権者に配布された。住宅家屋等の立ち退き期限は、翌14年5月末と決められていた。

 調布飛行場建設予定地斜め空撮写真(押立山谷から大沢にかけて写っている)
 
調布飛行場建設計画説明書
 調布飛行場照明器具其他配置配線図 (東京都公文書館蔵・古橋研一氏提供)
 上記配置配線図中のT型風向指示灯写真

1.建設の経緯
 東京調布飛行場は、東京府が都市計画事業として建設した公共用飛行場だが、主たる目的は帝都防空であり、平時には羽田国際飛行場の予備、および航空局航空試験所(川崎市高津所在)用と規定されていた。
 建設計画が明らかとなったのは昭和13年11月のことで、早くも同12月には用地買収が始まり、翌14年4月着工というスピードぶりで、人手不足のおりから工事人夫の主体は全国から集められた刑務所受刑者であった。

 飛行場は、調布町飛田給、上石原、多磨村押立山谷、下染谷、三鷹町大沢に跨って建設され、計画面積は約50万坪とされた。予定地の多くは山林、田畑だったが、農家も点在しており、家屋40数棟と寺院、神社各1が移転させられた。買収価格は坪当たり宅地6円、畑3円60銭、山林2円50銭であった。

 総工費は約460万円。うち60万円を陸軍省、100万円を逓信省、残り300万円を東京府が負担した。
 滑走路は120ミリ厚コンクリート舗装で、南北(17/35)1000m、東西(10/28)700m、幅員は共に80m、夜間着陸照明も備えた当時としては本格的なもので、開場時、「東洋一の規模」と喧伝された。
 昭和16年4月30日、工事は竣工し、盛大な開場式典が行われて、大日本航空DC3型旅客機での試乗も実施された(

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2.戦時の飛行場
 昭和16年7月20日、防衛総司令部が新設された。調布飛行場には、その麾下に編成された第17飛行団と、その直轄部隊である飛行第144戦隊(後に244戦隊と改称)が配置され、爾後、調布飛行場は帝都防空の最重要基地となった。
 またこの頃、飛行場と東京天文台の間の水田を埋め立てて東京飛行機製作所(後の倉敷飛行機)調布工場が開設され、12月には、三鷹町大沢の広大な用地に中島飛行機三鷹研究所の建設が開始されている。

 調布飛行場は東京府の事業なので買収は強制だったが、中島飛行機は民間会社なので買収を拒否した地主も少なくなかったという。だが、地主の意向などにはお構いなく強引に工事は進められ、既成事実が積み重ねられていった。因みに、中島飛行機の土地買い取り価格は坪12円と、調布飛行場の場合の2倍であった。

 中島飛行機の創業者中島知久平は、三鷹研究所用地内にあった別荘用邸宅「泰山荘」を住いとしており、地元民からは「中島のオヤジ」と呼ばれて慕われていた。彼は三鷹研究所を陸海軍合同の航空機開発センターとする壮大な将来構想を描いており、大型機の発着も可能とするため、用地を調布飛行場と一体化し、滑走路も2000m級に延長する計画であった。
 研究所用地には、もともと多くの松の大木が植わっていたが、中島知久平はその伐採を嫌い、私費を投じて120人ほどの人夫を雇い、約450本の松を邪魔にならない場所まで移植させた。

 昭和17年、最初の用地拡張が実施され、新設の南格納庫地区には第1航空軍司令部、第17飛行団司令部および同偵察中隊、第14航空通信隊等が配置された。この拡張では飛行場用地の南端に位置していた高亀病院が立ち退きとなり、2階建の病棟ごと甲州街道と京王線路を渡って飛田給駅の南側(現成長の家飛田給練成道場)まで移動した。

 拡張は、18年、19年と続き、19年の拡張では飛行場南端にあった3つの寺も、お堂ごと畑中を東へ数百メートル引っ張られて移転した。また、飛行場内外に多数の掩体とこれを繋ぐ誘導路、天文台下の段丘崖には射朶や地下兵舎、燃料庫、飛行場隣接地には操縦者用宿泊休養施設である仮泊所が設置された。
 更には、飛行場を一望できる東京天文台東側の崖上に高射砲第112連隊第1大隊の高射砲陣地12門および電波標定機が配置されて、調布飛行場は、いわば防空要塞と化していった。


 米空軍第21爆撃機兵団が高々度偵察によって作った地図。日本を空襲した米機のパイロツトはこれを携帯していた。電球のような丸いマークと数字は高射砲を示す。
 右上の注意書きでは、深大寺高射陣地にレーダー式照準装置の存在を指摘している。
■  調布飛行場施設配置図へ



3.帝都空襲そして終戦
 昭和19年11月に始まったB29よる帝都空襲では、各飛行場は攻撃目標となっておらず、調布飛行場への投弾もなかった。しかし、20年2月16日早朝から開始された敵艦載機延べ約1000機による空襲では、関東、東海各地飛行場が目標となり、調布も16、17両日にわたって銃爆撃を受けた。

 昭和20年4月7日、硫黄島を発進したP51約30機がB29を掩護して来襲した。これ以降、P51は本土上空を我が物顔に飛び回り、我が邀撃機は無力に等しい存在となった。そして5月17日、調布飛行場の主たる244戦隊も特攻掩護のため九州知覧へと去り、帝都の要害としての調布飛行場は、その役割を終えた。

 5月25日深夜、帝都西部を襲った焼夷弾攻撃は調布町と三鷹町にも及び、調布飛行場南地区、東地区も火の海となった。これにより大格納庫と木造格納庫4棟をはじめ多くの兵舎が焼失し、飛行場の風景は一変してしまった。

 8月15日、終戦の詔勅が下った。この日夕刻、在調布特攻諸隊の3式戦計23機と、これを掩護する飛行第52戦隊の4式戦30機は、新たな特攻作戦参加のため、南九州への出発準備中であったが、これにより一切の戦闘行動が中止され、22日、全軍に武装解除が下命された。更に、24日18時をもって全ての飛行が禁止され、皇軍飛行部隊はその幕を閉じたのである。

  昭和20年8月末、米海軍偵察機が撮影した調布飛行場南地区

4.占領
 9月2日午前、沖縄から飛来したC47あるいはC46輸送機と護衛のF4Uコルセア数機が調布に到着し、武装解除を確認した。そして4日午前、米陸軍第8軍 騎兵第1師団 第12連隊の約1000名が横浜から八王子を経由して到着、調布飛行場を占領したのである。

 9月17日、進駐連合軍より日本政府に調布飛行場接収の申し入れがあり、これ以降、調布飛行場ならびに倉敷飛行機会社調布工場は米軍施設として供用されることになった。P38ライトニングおよびP51ムスタングを装備する米陸軍第8写真偵察飛行隊と第82偵察飛行隊が調布に到着したのは、9月28日のことである。


 昭和32年当時の調布飛行場。左手の長方形部分が水耕農場。滑走路周囲に走るいくつものラインは飛行場本来の排水溝と道路、それに西武線からの引き込み線路。

5.調布水耕農場
 昭和21年6月、調布飛行場西地区一帯に、水耕栽培の実用施設としては世界初となった調布水耕農場(米陸軍総合補給廠 糧食補給部 第8002部隊)の建設が開始された。期を同じくして偵察飛行中隊は、整備工事が完了した入間川飛行場へ移駐し、調布飛行場は水耕農場の補助施設と化した。突貫工事の末、水耕農場は、同年12月には一部が稼働している。

 調布水耕農場はその後も拡充を続けた。温室内での水耕栽培だけでなく、遊休化した旧飛行場の広大な用地を利用した土壌栽培も開始され、巣鴨拘置所に収監中の戦争犯罪人たちも農夫として多数が使役された。
 その後、調布飛行場東地区には再び米陸軍飛行部隊が駐屯し、ヘリコプター、連絡機の基地として昭和35年まで使用された。
 調布水耕農場は昭和36年、その役目を終えて閉鎖となり、跡地は「関東村」住宅施設として約12年間使用されている。


6.民間航空の使用
 昭和31年、当時未利用であった飛行場北東の地域が日本政府の要望で返還され、民間航空の基地として使用されることとなった。ここには、旧倉敷飛行機会社の後身である伊藤忠航空整備会社が設立され、小型飛行機整備基地の趣を呈して現在に至っている。

 また、都内に航空基地を切望していた陸上自衛隊は、返還後の調布飛行場を使用する強い希望を持っており、米軍協力のもと東部方面航空隊調布連絡所を設置してLM−1連絡機を常駐させたり、同機の納入式(をわざわざ調布飛行場で実施するなどの、いわば示威行動をとっていたが、先に国有の立川飛行場が返還されたために、この構想は実現せずに終わった。

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