東京調布飛行場の沿革 07.4.8




 昭和19年初めの調布飛行場

 用地は既に2度拡張されており、
 この夏、3度目の拡張があった。
 滑走路、エプロン等の舗装面は
 迷彩塗装が施されているため、
 上空からは識別しにくい。


 調布飛行場計画平面図 07.4.8

 昭和13年12月、用地買収の際、
 約三百名の地権者に配布された。
 住宅家屋等の立ち退き期限は、
 翌14年5月末と決められていた。



1.建設の経緯
 東京調布飛行場は、東京府が都市計画事業として建設した公共用飛行場だが、主たる目的は帝都防空であり、平時には羽田国際飛行場の予備、および航空局航空試験所(川崎高津所在)用と規定されていた。
 建設計画が明らかとなったのは昭和13年11月のことで、早くも同12月には用地買収が始まり、翌14年4月着工というスピードぶりで、人手不足のおりから工事人夫の主体は全国から集められた刑務所受刑者であった。

 飛行場は、調布町飛田給、上石原、多磨村押立山谷、下染谷、三鷹町大沢に跨って建設され、計画面積は約50万坪とされた。用地となった土地の多くは山林、畑だったが、農家も点在しており、家屋40数棟と寺院、神社各1が移転させられた。

 総工費は約460万円。うち60万円を陸軍省、100万円を逓信省、残り300万円を東京府が負担した。
 滑走路は120ミリ厚コンクリート舗装で、南北(17/35)1000m、東西(10/28)700m、幅員は共に80mであった。これは当時としては本格的なもので、開場時、「東洋一の規模」と喧伝された。
 昭和16年4月30日、工事は竣工し、盛大な開場式典が行われて、大日本航空DC3型旅客機での試乗も実施された。


2.戦時の飛行場
 昭和16年7月20日、防衛総司令部が新設された。調布飛行場には、その麾下に編成された第17飛行団と、その直轄部隊である飛行第144戦隊(後に244戦隊と改称)が配置され、爾後、調布飛行場は帝都防空の最重要基地となった。
 またこの頃、飛行場と東京天文台の間の水田を埋め立てて東京飛行機製作所(後の倉敷飛行機)調布工場が開設され、12月には、三鷹村大沢の広大な用地に中島飛行機三鷹研究所の建設が開始されている。
 中島飛行機の創業者中島知久平は、三鷹研究所用地内にあった別荘用邸宅「泰山荘」を住いとしていたが、彼は三鷹研究所を陸海軍合同の一大航空機開発センターとする将来構想を描いていた。大型機の発着も可能とするため、用地を調布飛行場と一体化し、滑走路も2000m級に延長する計画であったという。

 昭和17年、最初の用地拡張が実施され、新設の南地区には第1航空軍司令部、第17飛行団司令部および偵察中隊、通信隊等が配置された。この拡張では飛行場用地の南端に位置していた病院が立ち退きとなり、2階建の病棟ごと甲州街道と京王線路を渡って飛田給駅の南側(現成長の家飛田給練成道場)まで移動した。
 拡張は、18年、19年と続き、19年の拡張では飛行場南端にあった3つの寺も、お堂ごと畑中を数百メートル引っ張られて移転した。また、飛行場内外に多数の掩体とこれを繋ぐ誘導路、天文台下の段丘崖には射朶や地下兵舎、更に仮泊所の建設など、調布飛行場は、いわば防空要塞と化していった。


攻撃目標図…調布飛行場

攻撃目標図…調布飛行場

米空軍第21爆撃機兵団が高々度偵察によって作った地図。日本を空襲した米機の
パイロツトはこれを携帯していた。電球のような丸いマークと数字は高射砲を示す。
右上の注意書きでは、深大寺高射陣地にレーダー式照準装置の存在を指摘している。


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3.帝都空襲そして終戦
 昭和19年11月に始まったB29よる帝都空襲では、各飛行場は攻撃目標となっておらず、調布飛行場への投弾もなかった。しかし、20年2月16日早朝から開始された敵艦載機延べ約1000機による空襲では、関東、東海各地飛行場が目標となり、調布も16、17両日にわたって攻撃(ほとんどが機銃掃射)を受けた。

 昭和20年4月7日、硫黄島を発進したP51約30機がB29を掩護して来襲した。これ以降、P51は本土上空を我が物顔に飛び回り、我が邀撃機は無力に等しい存在となった。そして5月17日、調布飛行場の主たる244戦隊も特攻掩護のため九州知覧へと去り、帝都の要害としての調布飛行場は、その役割を終えた。

 5月25日深夜、帝都西部を襲った焼夷弾攻撃は調布町にも及び、調布飛行場南地区、東地区も火の海となった。これにより大格納庫と木造格納庫4棟をはじめ多くの兵舎が焼失し、飛行場の風景は一変してしまった。
 8月15日、終戦の詔勅が下った。この日、在調布特攻諸隊と、これを掩護する飛行第52戦隊は新たな特攻作戦参加のため、南九州への出発準備中であったが、これにより一切の戦闘行動が中止され、22日、全軍に武装解除が下命された。更に、24日18時をもって全ての飛行が禁止され、皇軍飛行部隊はその幕を閉じたのである。

写真 昭和20年8月末、米海軍偵察機が撮影した調布飛行場南地区

4.占領
 9月2日午前、沖縄から飛来したC47あるいはC46輸送機と護衛のF4Uコルセア数機が調布に到着し、武装解除を確認した。そして4日午前、米陸軍第8軍 騎兵第1師団 第12連隊の約1000名が横浜から陸路到着して、調布飛行場を占領したのである。

 9月17日、進駐連合軍より日本政府に調布飛行場接収の申し入れがあり、これ以降、調布飛行場ならびに倉敷飛行機会社調布工場は米軍施設として供用されることになった。P38ライトニングおよびP51ムスタングを装備する米陸軍第8写真偵察飛行隊と第82偵察飛行隊が調布に到着したのは、9月28日のことである。


昭和32年調布飛行場

 昭和32年当時の調布飛行場。左手の長方形部分が水耕農場。滑走路周囲に走る
いくつものラインは飛行場本来の排水溝と道路、それに西武線からの引き込み線路。



5.調布水耕農場
 昭和21年6月、調布飛行場西地区一帯に、水耕栽培の実用施設としては世界初となった調布水耕農場(米陸軍総合補給廠 糧食補給部 第8002部隊)の建設が開始された。期を同じくして偵察飛行中隊は、整備工事が完了した入間川飛行場へ移駐し、調布飛行場は水耕農場の補助施設と化した。突貫工事の末、水耕農場は、同年12月には一部が稼働している。

 調布水耕農場はその後も拡充を続けた。温室内での水耕栽培だけでなく、遊休化した旧飛行場の広大な用地を利用した土壌栽培も開始され、巣鴨拘置所に収監中の戦争犯罪人たちも農夫として多数が使役された。
 その後、調布飛行場東地区には再び米陸軍飛行部隊が駐屯し、ヘリコプター、連絡機の基地として昭和35年まで使用された。
 調布水耕農場は昭和36年、その役目を終えて閉鎖となり、跡地は「関東村」住宅施設として約12年間使用されている。


6.民間航空の使用
 昭和31年、当時未利用であった飛行場北東の地域が日本政府の要望で返還され、民間航空の基地として使用されることとなった。ここには伊藤忠航空整備会社が設立され、小型飛行機整備基地の趣を呈して現在に至っている。
 また、都内に航空基地を切望していた陸上自衛隊は、米軍撤退後の調布飛行場を基地として使用する強い希望を持っており、東部方面航空隊調布連絡所を設置してLM1連絡機を常駐させたり、新機納入式をわざわざ調布で執行するなどの行動をとっていたが、先に立川飛行場が返還されたために、この構想は実現せずに終わった。

出典=『調布市史下巻』 『調布史談会誌26号』 『図説 戦争裁判スガモプリズン辞典』 『世界の傑作機』 『陸軍飛行第244戦隊史』


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