大格納庫(大格)
2015.6.20

 昭和16年夏、調布飛行場開場と共に誕生。専ら「大格」と呼ばれ、飛行場のシンボルだった。
 大格では、整備指揮小隊の手で主にエンジン換装などの作業が行われ、防衛総司令官東久邇宮殿下の専用機MC20も、ここに翼を休めていた。

 大格は昭和20年5月25日深夜の空襲により炎上、鉄骨だけの姿となったものを、米軍の要求により東京都が21年に修復した。そのため屋根の形状が戦時とは異なっている。

 大格は飛行機のためだけでなく、部隊葬や慰問、演芸会の会場としても使われ、戦隊が知覧へ行く直前に行われた田中絹代ら松竹映画一行の慰問は、その華やかさで今も語り草となっている。
 
   
 

244戦隊本部と大格
(昭和17年末)

 バックに大格納庫、その手前に野戦用作戦室のテント(地面を少し掘り下げてある) が見える。まだ、のんびりしたもので、迷彩も施されていない。

 244戦隊本部は、本来飛行場の司令所として東京府が建設したもので、上から見ると「L字」の形状になっている。

 手前の1階部分が変電室、2階部分が無線室、3階部分が飛行場燈火の制御室、屋上には航空灯台やサーチライトが設置されていた。

 昭和19年になって増築され、更にコンクリート造半地下式の戦闘指揮所が画面外左手に新設されたが、今日から見れば貧弱なものだった。

 当時の軍用飛行場では、格納庫や指揮所は高度の機密事項であり、飛行機を撮影する際も、これらが背景に写らないよう慎重に配慮していた。したがって、このような写真は極めて珍しい。

   

大格
(昭和19年秋)

 海軍のパイロットと整備員によって試運転を行う海軍第332航空隊の月光23型。風防後方に上向き斜め銃が見える。

 零戦、雷電、月光、銀河など、海軍機の調布への飛来は多く、その姿を見ない日はなかったというほどだった。

 調布に飛行班が配置されていた防衛総司令部は、海軍の内地防空部隊も麾下に収めていたため、これらの東京出張の際には、厚木よりも交通の便がよい調布が利用されたものと思われる。




空襲で炎上 骨組だけになった大格







 昭和20年6月初め、調布飛行場で撮影された大映映画「最後の帰郷」に一瞬写る、骨組だけの大格。

 5月25日の夜間大空襲では、この大格をはじめ調布飛行場の多くの施設が焼失した。
 



昭和20年10月、米軍が撮影した大格。応急のタワーが載せられ、右手にはVHFアンテナも立てられて、既にATCが実施されていることが分かる。

 米軍機がひしめく、応急タワーからの眺め(現在の三鷹市大沢総合グラウンド一帯)
写真出展 サンディエゴ航空宇宙博物館デジタルアーカイブ


昭和50年頃の大格



米軍時代、ここには軍事顧問団が配置されて、日本人作業員を指導していた。








2階建の出っ張り部分は、戦後増築された。1階が便所、2階が事務室。




手前の建物は米軍時代の兵舎だが、戦時には木造の小格があった。更に手前が防総飛行班跡。







昭和18年春、大格の隣に建てられた木造小型格納庫の基礎。
小格と呼ばれ、244戦隊の 武装分隊が主に使用していた。




エプロンの縁には、小型格納庫の扉のレールが未だ残っていた。




手前の3棟は米軍時代の自動車整備工場。




昭和45年の大格。この頃の管制塔は米軍が残した旧式無線機を使っており、
よく故障していた。




このFA200が駐機している左手に、かつて244戦隊本部があった。




一日の飛行を終えた航測用ツインボナンザ(JA5013)が大格前で翼を休める。



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